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イノセンツのbackpackerのレビュー・感想・評価

イノセンツ(2021年製作の映画)
3.0
昔シネマカリテで見た『エヴォリューション』と同じで、個人的に好みではなく鼻白んでしまう類の作品でした。
各種映画情報発信媒体が「大友克洋の『童夢』への北欧からの完璧なアンサー」との趣旨で好評記事を出していましたが、この手の〈子ども同士の幼い独自の社会性=大人になるにつれて確立した常識的価値観の破壊者〉として描くような作品は、表現方法次第で絶賛することもありますが、いつも判断に困ります。
個人的に本作には、『スキャナーズ』と『ブルード怒りのメタファー』を足し合わせたような印象を抱きましたが、寒々しく冷淡で酷薄だが美しい北欧映画っぽいルックはサイキックホラージャンルによく馴染む(嫌な雰囲気が一層際立つ)こともよ〜くわかりました。

【作品感想】
主要登場人物4名を巡る物語に対しては、色々考えさせられましたね。
自閉症の姉アナと、現状に不満のあるイーダの姉妹。
高圧的な母親に怒りを抱える少年ベンジャミン。
泣き暮らす母親を心配する少女アイーシャ。
彼らは、『イノセンツ』という題名のとおり無垢で無邪気な子どもたち……という程でもありません。
それぞれの家庭で、不平不満や苛立ち、親の愛と怒り、わかってもらえない理不尽さ等を体験して、①相応にフラストレーションを溜め込んでいる者、②純真な友愛のようで孤独を埋め合う代替手段とある種の排他性を持つ者、③自己の発露を他者が求める形で示せず爆発的感情表現へとつながる者、といった構造をそれぞれに内包しています。要は、似た者同士達ってことです。
そんな彼らが引き寄せられるように集い、内に眠るサイキックに覚醒していくことで、感情の発露は外の世界、更には自分たちへと向けられ……。彼らの友情と大人にはわからない”子どもの世界”の秘密性が推進力となって進む物語は、多面的な問題をイノセントの皮に隠して展開していくのです。

ここでは敢えて、ベンジャミンとイーダに感想の的を絞って、本作が好きになれなかった原因について書いておこうと思います。
というのも、本作における不穏な雰囲気の起因には、ベンジャミン君の残虐行為に享楽を感じる歪んだ情動と、嗜虐趣味のケがあるイーダの二人が中心軸となっているためです。
(特に、物語の狂言回し的役割を与えられているイーダは、あえて汚らしい行為が目立つように振り付けられており、ブスッとして僻みっぽそうな目つきの巧みな演技もマッチして、実に憎たらしいガキだな.....と見えることもチラホラ。その実、両親に世話される姉と構われない自分との差による嫉妬の思いが、姉を傷つけるという過激な方向に発露するのは、イーダの本質と捉えるべきか否か......。
なお、終盤には残虐VS残虐による地獄のデスマッチという好取組もマッチアップされます。うーん、この蠱毒感。)

好きになれなかった最大の要因は、詰まるところ、子どもたちによる残虐行為描写にあります。
特に、ベンジャミンが子猫を殺すシーン。イーダのミミズ踏みシーンも嫌でしたが、子猫殺しの露悪的な演出には、身の毛もよだつ不快感を感じると同時に、「この映画とは仲良くなれそうにないな」とハッキリ
自覚した瞬間でもありました。更に、結束バンドで子猫の死体を弄んだ痕跡を追い打ちで見せる潔いほど悪なコンボ技に打ちのめされ、まんまと監督の手のひらで踊らされてしまいました。
なぜ、映画での動物虐待業者に忌避感があるのか。逆説的ですが「これは映画だから」と理解していることが原因かもしれません。というのも、映画を見る=作り物を見ること、即ち、例えどんなにリアルで派手でスプラッターでトラウマもので優のPTSDすら心配してしまうような過激シーン併優(本作では子役)があったとしても、それが“演技と編集の結果”に過ぎず、進法スナッフビデオでもない限り”ほんまもんの映像”なんてないとわかっていることによる安心、いわは心の防波堤を無意識に展開している状態にあるのです。

そこに、動物虐待描写が入り込んでくると、どうなるでしょうか。
昨今はエンドロールにて、アニマルライツ印の「実際に動物たちを酷い目にあわせてはいませんよ」とのお断りが安心させてくれる優しい作りが主流ですが、例えば『食人族』や『世界残酷物語』のようなモンド映画では、実際に動物殺しシーンを撮影している作品も多々あると認識しています。
そのため、「動物への残酷行為は実際に行われていても不思議ではない」と考えてしまい.....要は、防波堤が機能しないのです。
ただでさえ動物モノのお涙頂戴系に弱いため、動物ってだけで防衛反応が脆くなっているというのに。虐待シーンなんて見てしまうと、心への負荷がとびきりかかります。
さらに、児童虐待と動物に対する残虐行為(この連関は、日本では酒兒種 聖人事件等で有名ですね)が合わせ技となったうえで、児童噌待行為へのある種の防衛反応がサイキック・パワーの獲得方法の一つかのように提示された日には、私の脆弱なATフィールドなんてたちまち瓦解します。
こんなの、どうやったって苦手判定せざるを得ないですよ。


「私だけ何もない」と自称したイーダが、実はサイキック達を集め、能力を開花きせ、彼らの力を伸ばすきっかけを与える存在であり、最終的には昂る気持ちに感応して超能力を発現させていたように見えましたので、こういうところはもっと掘り下げがいがあるかもしれませんが、とりあえずここまで。
何分そこまで好きじゃない映画でしたので、これ以上アレコレ書き連ねるもの億劫です……。
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