ゴトウ

カルテットのゴトウのレビュー・感想・評価

カルテット(2017年製作のドラマ)
4.0
それで食えるわけでもないしプロ級に上手いわけでもないのに意味ないじゃん、とカルテットの内側からも外側からも繰り返される問いかけ。食えなかったり上手くなかったらやったらダメなんでしょうか。みぞみぞする瞬間や、誰かが立ち止まってくれる瞬間や、自分たちが幸せを感じられる瞬間のために、やっていたっていいじゃない。アウトサイダーの最後の拠り所としての、大したことないアマチュアによる実践。『大豆田とわ子と3人の元夫』では綿来かごめが描いたマンガであり、『花束みたいな恋をした』では絹ちゃんのラーメンブログや麦くんが手放してしまったイラストであり、全ての創作と実践への賛美と感じた。

はみ出しものたちが集まって安心して暮らせる家が一つあったらどうなるだろう、というある種の思考実験のようでもある。ゴミを出さなかったり働いていなかったら確かに「ダメ人間だって一般的には言われる」のかもしれないけれど、だとしたら「ダメな人」は幸せに生きる資格がないのだろうか?誰がどんな権利で人を査定するんだ、という別府の吐露は切実。同時に、やっぱり「ダメな人」になってはならないという価値観を自分自身が多かれ少なかれ内面化してしまっていることにも気付かされるし、「ダメじゃない度」的なものが高い人からしたら僕は相当ダメだろうし、暗い気持ちにもさせられる。そうしたなんとなく査定し査定されることで変わってしまったり、苦しんだりするのは『花束』とも共通するテーマのようにも見えた。みんなが楽器を始めるとかみんなが誰かとシェアハウスすれば良いという話ではなく、それぞれがどこかに拠り所を見つけることで誰に褒められなくても生きていけるんじゃないか、という微かな希望が描かれているように思った。

競走を勝ち上がって使えるものは全部利用して生きていくやり方を大幅に誇張した有朱ちゃん(吉岡里帆、目が笑ってない性悪女役がハマりすぎ)の存在も、それはそれでアウトサイダーの別のあり方として否定はされないのが印象的。彼女にしても小さな部屋に家族ぎゅうぎゅう詰めで育ったわけだし、ああならざるを得ない、あるいはああなることを選択することを仕方がないと感じざるを得ない事情があったと推察できる。カルテットの4人にしても、「相対的に弱者だから優しい」などということは決してない。唐揚げにレモン、みたいなところならまだしも、容赦なしにペテン師ピアニストを追い落とすような冷酷ともいえる面が各々にある。「全員嘘つき」というように、あの別荘も互いが互いの全てを許容しあうようなユートピアでは決してない。というか、そんな人間関係は成立し得なくて、我々全員が「優しさ」のカバー範囲をどう策定するかみたいな答えのない問いを投げかけられてもいるんだろう。傷の舐め合いと言われれば否定できないし、クライマックスにコンサート一発、音楽一発で世間を黙らせるみたいな夢はやっぱり成立し得なくて、ステージにはゴミが投げ込まれるし結構な人数が中座していく。お金を払ってまで嘲笑したり嫌がらせをしに来る人がいるのも残酷なリアルだから、ノクターンの夫妻や有朱ちゃんがどのような心持ちにせよ拍手を送ってくれるというささやかな救いが良くも悪くも胸にくる。

あとは別府くんだけ名家の出だし、職もちゃんとあって、自分を好いてくれる女性がいて、カルテットの中でも一人だけマージナルな印象を受ける。だから一人だけ諦めなかったり、一人だけ諦めていたりして、それが四人の人間関係のバランスを保っているとも取れるし、結局誰のものも身を結ばなかった恋心が象徴的な「ないものねだり」を体現したキャラクターだったのかもしれない。最後は彼が無職になっていて、当初の状況が反転しているのも面白かった。だからこそ、もっと別府くんが狂言回し的になっても面白かったとは思うけど。
展開的にかなり存在感が薄くなったタイミングもあった気がする。もう少し「やむにやまれずその立場にある人と、片足突っ込んでいるだけの人」の対比みたいなものがわかりやすくてもよかったような。

仕掛けが多かったせいか、繊細な人間関係の機微がもう少し見たかったとも思いつつやはり別府くんと九條さんのやりとり、「わたしもずるいし、別府くんもずるい。でも、寒い朝ベランダでサッポロ一番食べたら美味しかった。それがわたしと君のクライマックスでいいんじゃない?」。これは声に出して読みたいパンチラインだったなぁ。

モノマネされまくるのも納得の高橋一世、あれぇ〜?って言いたくなるな。最後の演奏シーン、これまでの回想と重なる中で意外と彼の見せ場がなかった(印象に残るパンチラインが他の人よりなかった)のでちょっと笑ってしまった。
ゴトウ

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