こうん

TAR/ターのこうんのレビュー・感想・評価

TAR/ター(2022年製作の映画)
4.4
トッド・ソロンズ…じゃない、
トッド・ヘインズ…じゃなくって、
トッド・フィリップス…でもない、
トッド・ブラウニング…ちゃう、
トッド・フィールド!

なぜかいつも混同してしまうので今後間違えないように…というメモですHAHAHA。
特にヘインズとソロンズとフィールドを混同しそうな気がするので気をつけようっと。
トッド監督多いよね~ということを確認して観てきました、トッド・フィールド監督作「TAR/ター」。
ケイト・ブランシェット扮するリディア・ターが振るタクトから巻き起こる暴風圏内にいつの間にか連れていかれて大変です。

ここ最近はいくら映画を観ても映画欲が満たされず「もっとくれ」状態でしたけど、本作を観終えて「ちょっとしばらく映画はいいや」という膨満感を得ております。咀嚼反芻がたいへんだけど楽しくもある、そんな感じ。
この映画が飛び抜けて優れた映画なのか案外そうでもないのか、これから呻吟して手繰り寄せようと思いますけど、理解しているかもしれない部分とそうではないかもしれない部分もあるのでドキドキです。
ちなみにトッド・フィールド監督作観るの初めてでした。
(過去作も観て…という殊勝なことしません)

どんな映画でも(よっぽど魂の入っていない映画以外は)少なからず作品内から観客へと、なにかしらの声が投げかけられたりするものですけど、この「TAR」からは同じ音量音圧のいくつもの声で問いかけられているようで、それらひとつひとつに対峙しようとすると知恵熱が出てきそうです。

さてご案内の通り、本作は超偉い音楽家であるリディア・ターさんの転落劇です。
時事的にはキャンセルカルチャーについての映画とも言えそうだけど、当世の言葉やカテゴライズに収めることのできない複雑玄妙な人間の業が描かれておると思いましたね。
業とはつまり、芸術の奉仕者であり権力者であり社会生活者で職業人であり愛情を求める一個の人間であるリディア・ターさんの内面であります。
それを否定も肯定もせず、リアリズムと時に幻惑的表現を綯い交ぜにして冷酷な視座でもって描破しており、意図的な掴みにくさも含め、人間という社会的生物の即し難さが全体を覆う膜のようになっていた気がします。

まず、そのリアリズムに徹したリディア・ターというキャラクター造詣とケイト・ブランシェットさんの役への深掘り具合が凄まじくて、この映画を駆動させるエンジンとしてめちゃくちゃパワフルで魅力的でしたね。このリディア・ター≒ケイト・ブランシェットの緻密で繊細な一挙手一投足が彼女の感情をそのまま表現しまくる3時間弱、惹きつけられ飽きることがなかったです。
この人をモンスター化した芸術への奉仕者とみることもできるし、権力を持ってしまった俗物とみることもできるし、男性主権社会の中で戦い上り詰めた同性愛者とみることもできるし、音楽への傾倒を鎧として生きるただひとりの人間とみることもできるし、彼女のダークサイドもライトサイドもその中間も、奥行きをもって余すところなく表現していて、全体としてどこか掴みどころの不確かな感じが面白かったですね。
出版記念のトークショーの舞台袖での準備運動には結構彼女の弱さや繊細さが見て取れるし(舞台にあがっても指が神経質に動いている)、はたまた若い学生への圧迫講義とか楽団内の恣意的な人事など、才能や権力由来の傲慢でエゴイスティックな態度など対外的な強さも併せ持っていて、しかしそれがさまざまな要因でバランスを崩していく…というのがとても人間的に思えました。
どちらかと言えば歪んだ性格のわたしは、リディア・ターさんがそんなに傲慢にも悪辣にも思えなくて、唯一「そりゃないぜ」と思ったの先人のレコードを足蹴にしていたことくらい。問題となるマックス君への圧迫講義は、言っている内容には「ごもっとも」と思いながら聞いていました。才能人柄ともに気に入った人材をそばに置きたいのはスコセッ師がディカプーに何度もオファーするのと同じだと思うしね(少なくともスコセッ師映画に出たいほかの俳優にとってはフェアではないこともある)。
もちろん彼女が“キャンセル”される要因の数々はむべなることかなとは思いますけど、明確なパワハラやモラハラとして描かれていない(もしくは見せていない)ところが、キャンセルカルチャーという事象の向こうにリディア・ターというフィクションが象徴する業を炙り出していることになっていると思います。

彼女の本質は、アメリカの田舎の中流家庭生まれの彼女(本名リンダ)が全力で志向した芸術への奉仕者、ということで、しかしその芸術的追及の半生が内的外的要因で彼女をいわばモンスター化させた、その悲劇(もしくは喜劇)というのが本作の骨子じゃないかと思っております。
劇中にアナグラムが2回出てきたと思いますけど、そのうちのひとつが彼女の評伝「TAR ON TAR」を「RAT ON RAT」と揶揄していましたけど、さらにアナグラムで入れ替えると「ART ON ART」にもなるので、たぶんそういう意味の主人公の命名なんだと思います。
(もう1回は送られてきた本を「なによこれ」とリディアがそのタイトルをアナグラムにして謎を解こうとしているシークエンス)

なので、彼女が追い詰められていく一番の要因は、音楽家としての限界を自覚しているストレスまたは音楽家としてのアイデンティティ・クライシス、という見立てをしていますし、そう考えると東アジアのどこかの国でモンハンコンサートでタクトを振る彼女は、かつての彼女が憧れ志向した西欧ハイカルチャーの呪いのような軛から解放された、別次元の音楽家に転生したということが言えるかもしれません。
とはいえ、そこまで明確な“解放”感が描かれているわけでもないので、ラストの彼女の姿を転落の成れの果てと捉えることも可能ではありますし(となるとあの国の観客にもゲーム音楽にも超失礼)、映っている観客は楽しんでいたのは間違いなさそうなのでかつて自分と作曲家の為だけに音楽を芸術として高めようとしていたターが図らずも音楽を芸術ではなく娯楽として観客に提供している、というアイロニーであるのかもしれません。

そういった玉虫色の表象で構築する作劇が面白かったし、ケイト・ブランシェットの壮絶な演技も含めシナリオから撮影から劇伴からなにからなにまでハイレベルで気合の迸った乾坤一擲の作であると思います。

思いますけど…なんか…素直に褒める気にならないのは(苦笑)、リアリズムゆえの意図的な説明不足はいいとして(とはいえマーク・ストロングがどのような立場の人なのかよくわかっていなかったのであそこは「え?」となった)、意図的な抽象あいまい表現が多くて、なんか鼻につきました…それは主にリディア・ターが追い詰められて現実と妄想の境界線が揺らぐところですけど、あえて意味不鮮明な箇所をもうけて映画全体に余白という名の補助線を付与するというはあるにしても、ちょっとそれが過多に感じて「映画を高尚にしたい~」という作為が透けて見える気もしましたね。あとリアリズムの筆致の陰でサブテクストへのアクセスをこっそり要求している感じとかもイヤ。
マーラーの5番が示すことや会話の中で言及されるフルトヴェングラーとか非ナチ化に潜むテーマ性とか、そういう読み解いてほしそうな素振りに「めんどくせーなー」と思いましたよ。
直感ではありますけど…キューブリックを私淑しているかのような本作の“高尚”の感じがなんか…アレなのです。

いや、その一方で、そのあたりのホラー風味の不気味な感じがシンプルに面白かった、というのもあったので「ぜんぜんダメ」ということでもないんですけど…じゃあどっちなんだよ!と問われたら「よくわからんのでモヤモヤしてます今!」と答えることにします。

もう1回観たらスッキリして「大傑作!」と吠えだすかもしれないし、逆にさらにひねくれて「ケッ凡作」となるかもしれません。リディア・ターさんが即し難い人間ならば、それを観ている私はさらに卑小で即し難い人間なので、こんな益体もない感想をここまで読んでくださった方に感謝するのみですアリガト。

ま、なんにせよ、いろいろと思考を促してくれる映画で、小池百合子の評伝(「女帝」)のことを思い出したり、宝塚歌劇団の演出家の件を想起したり、ケイト・ブランシェット当て書きだそうだけど演技オバケのオリヴィア・コールマンさんが演じてもまた別の良さや面白さがあったかもしれない、とか色々考えています。
2回目観るか―、と知的好奇心をくすぐられているのは間違いないです。

そうそう、監督の本意ではないと思うけど、メル・ブルックスが笑いものになっててそこはシンプルにムカッときたですね!
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