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東京2020オリンピック SIDE:Bのヨークのレビュー・感想・評価

東京2020オリンピック SIDE:B(2022年製作の映画)
4.3
姉妹編である『東京2020オリンピック SIDE:A』の感想文で非常に高評価を示した俺としては本作『東京2020オリンピック SIDE:B』も同程度に出来のいい優れたドキュメンタリー映画だと思ったのだが、なんかフィルマークスも含め世間での評判はあんまりよろしくないみたいですね。見てもムカつくだけだろうと思っているのであんまり他人の感想には目を通していないのだが。
しかしまぁ今回の『SIDE:B』の方も面白かったとはいえ、その面白さの方向性は『SIDE:A』とはかなり異なっていると思う。サブタイトル的にSIDE:A・SIDE:Bとあるようにこの両作品はレコードのA面・B面のように二つで一つの完成品というか、表裏や陰陽といった具合に一つの事象に対する二面性を描いてその両方をもって完成品となるような構造になっていると思うんですよね。なのでドキュメンタリーの映像作品としての『SIDE:B』の趣向は『SIDE:A』とは結構異なるテイストになっている。『SIDE:A』の方はその感想文でも書いたがかなり意識的に「物語」というものを利用してオリンピックという世界最大のスポーツイベントの中で、それに参加する選手たちの個の「物語」を取り上げてお祭りムードとはかけ離れた静謐な個人の内面描写を通じて政治や思想や経済が混ざり合う近代オリンピックというものを浮かび上がらせた作品だった。
それは非常に面白かったし好き嫌いで言っても俺はかなり好きな作品だったが、この『SIDE:B』の方はまた趣向が違っていて参加する選手たちの物語性とかよりも予想外の新型コロナ禍などによって二転三転とする巨大なイベントの運営というものをマクロな目とミクロな目で捉えるという、今そこで起きていることのライブ感を掬い上げることに注視した報道的な側面が強い作品であったように思う。もちろん監督である河瀨直美の意図や主張といったものは全編から読み取ることはできるのだが、記録を繋ぎ合わせていくことでオリンピックという一つの超巨大イベントの姿を浮かび上がらせていくという手法はドキュメンタリー映画と聞いて多くの人が連想するイメージに近くて、わりと観やすいのはこの『SIDE:B』の方だったりするのかなとも思う。
いやでも今回も面白かったですよ。映画はまずバッハ会長へのインタビュー(これはコロナ前かな?)から始まるんだけどそこでバッハが「オリンピックとは多様性の象徴である、そのような異なるもの同士の統合が日本という舞台でどう表現されるのか楽しみだ」とか言うんだけど、実際に映画の中で描かれるのは異なるもの同士が統合された多様性の称揚などでは全くなくて、むしろ真逆に分断と対立を繰り返してオリンピックという一大イベントの元でバラバラに空中分解してしまいそうになる組織の姿なのだ。そこはまぁ素直に面白かったし、正直オリンピック抜きにして新型コロナ禍を巡るここ2年ほどの日本のドキュメンタリー映画として観てもかなりいい出来だったと思いますね。
とりあえず面白いのは本作にはあらゆる立場で何だよそれって思うような複雑な肩書を持った人が出てくるんだけど、彼らがみんな自分の立場で「俺はこうなんだ!」「私はこうしたいんだ!」というアピールをする姿ばかりが描かれる。多分彼らはそれぞれが各々異なる団体やグループに所属していてその団体やグループにとって有利になるように立ち回っているのだが、そこに利害の調整といったような歩み寄りの姿勢はほぼ見られないんですよ。いや実際はそういう場面もあったのだろうが(と思いたい)より正確に言うとそういう場面はなるべく映さないように編集されているんですね。そこにはオリンピックに対して是か非かという大前提としての賛成派反対派とか関係なく、どっちにしろ巨大すぎる目標(オリンピック成功にしろ粉砕にしろ)の元に組織されるシステムというのはよっぽどの傑物とでも言える指導者でもいなけりゃグダグダになるんだよなっていうことを表しているのだと思う。そういう個人に頼らなくてもいいように官僚機構や政治システムは時代に従って進化していっているのだと思いたいが、でもやっぱまだまだダメなんだよな、ということを本作は描き出しているのだとも言えよう。その辺のグダグダ感を強調する演出として本作ではシーンの合間合間に公園とかで遊ぶ子供たちの描写があって、それがまるで無垢な問いとして「何で大人たちは協力できないの?」と問われているかのような効果を出しているのも面白い。
あとちょっと、おぉ! と思ったのはね、上でも書いたが本作では非常に多種多様な肩書の人間が出てきて彼らのセリフがテロップで表されたりするんだけどね、それが市川崑風の字幕というか今なら庵野風といった方がいいのかも知れないが黒地に白抜きで例えば厳しい締め切りを提示されたときとかに、



間に合わない
とか字幕が出るんだよ。いやこれはただの例だけどその演出はわりと頻出するのね。市川崑といえば1964年の東京オリンピックの記録映画を撮った監督だし、庵野秀明は市川崑オマージュを多用しつつ自作の中で何度も主要テーマとして組織というものを描いている監督である。本作での字幕演出はその両者へのオマージュってところはあるとは思うのだが、上でも少し書いたその組織を率いる者への批判は殊更鋭く表れていると思う。
具体的に名前を挙げると森喜朗のことなのだが、ちょっと笑っちゃったけど本作は全編にわたって森喜朗のことバカにし過ぎだろ。かなり登場頻度が多くて間違いなく重要人物として扱われているのだが中盤くらいのインタビューで「私の人生今まで色んなことがあったが後悔していることは何一つない、全てが必要だったことで自身の糧になっている」(キリッ)って感じで格好いいこと言ってるシーンから直接例の「女の話は長い」発言を受けての謝罪会見へと流れるように編集されてたからね。これは笑うし笑わせにきてるだろ! 河瀨! って思うよ。そこが作中でもっとも分かりやすいところではあるけどさ、本作で描かれている重要なこととして意思を決定する組織のトップたちと、それを受けて現場で動く下っ端たちとの対比っていうのは明確に描かれていたと思うよ。そこも面白い。
トップの意思決定を受けて実際に現場で動いている人たちに対する眼差しっていうのはとても慈に満ちた目線なんですよ。選手村かどっかの食堂の担当者の姿とか凄く寄り添うようにして描かれているんですよね。前の『SIDE:A』でもそういう感じで描かれていたが、多分、基本的に河瀨直美は政治と経済のために開催されるという意味でのオリンピックには否定的なんですよ。でも面白いことに地域の人間が集まって盛り上げるお祭り的なイベントとしてのオリンピックに対しては大いにアリだと思っている節があるんですよね。地元大好き河瀨直美は本作でも隙あらば奈良をねじ込んできて、それオリンピックに関係あったっけ? と思うような東大寺のお水取りの映像とかもあったと思うんだけどそのシーンは河瀨直美のオリンピックに対する姿勢が表れていると思いましたね。選手村の食堂で働くスタッフとか、観客を入れるかどうか分からないままに会場設営をしている作業員とか、聖火リレーに参加する地方の人間たちに対する眼差しの柔らかさっていうのは利権にあやかろうとする政とは別に祭りとして楽しむ者を肯定しているのだろうと思えるところがあって、そこはなんかいいなぁと思いましたよ。そういう感覚で撮ったんだろうなって思うとわりと『SIDE:A』ともつながるところがあって面白いですね。
あと、河瀨直美を語るにあたって奈良は絶対に外せない要素だが1000年以上前は中央だったのに政からは遠く離れて今はもう祭りしか残っていないという奈良の地ということを考えると、もしかして本作は自身のデビュー作でもある『萌の朱雀』のセルフオマージュなのではないかと思える部分もあった。上記した時折挿入される子供たちの映像というのがそうなのだが、あれ『萌の朱雀』で國村準が残したフィルムと重ねているのではないだろうか。『萌の朱雀』は奈良県西吉野の過疎が進む村で子供たち、ひいては主人公の少女である尾野真千子のためにトンネル事業で村の寿命を延ばそうとした國村準が描かれたが、俺には河瀨がそこで描かれたトンネル事業と東京2020オリンピックを重ね合わせて描いているような気がした。その事業が成功するか失敗するかはともかくとして、それは未来=映像として映される子供たちのために行われるべきであろうという思いはあるだろうし、それが今回のオリンピックにはあったのだろうか? という問いが最後に残るようになっているのだと思う。ラストの映像にパーフォレーションが表れる演出もすげぇ『萌の朱雀』っぽいんだよね。もう10年くらい見直してないからちょっと忘れてるけどさ。
しかしそうだとしたらオリンピックの公式映画にセルフオマージュをぶち込むとかどんな神経してんだよ!? って感じなんだが、まぁ河瀨直美は神経太そうだからな、そういうことしても不思議ではないな。まぁ何はともあれ面白い映画でした。ぜひとも『SIDE:A・B』と両方観てほしいなぁという作品でしたよ。面白かった。
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