朱音

ホワイト・ノイズの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

ホワイト・ノイズ(2022年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

本作はアメリカのポストモダンを牽引する小説家ドン・デリーロが1985年に発表した原作小説がもとになっている。

デリーロ作品の特徴は、大きな出来事に揺れる大衆や社会の不安心理を独自の切り口で描いてゆくことにある。そしてこの良くも悪くも社会不安というものが、世の中を次のステージへと突き動かしていくのではないか、と、そう思わせるストーリーテリングを漂わせている。メディアや政治的陰謀、大衆文化、消費文化といったものと、それらによって社会的に流布されたイメージとが人々に対していかに深い影響を及ぼすかが語られ、他方でゴミや身体、有毒物質などといった、あるいは目を背けられ、あるいは自覚されずにある社会と人々の物質的・身体的側面が強調される。
このような二つの側面が絡み合ったり、相反しながら互いに関わり合い、現代の社会と人々のありようを規定してみせる。(Wikipedia参照)

デリーロ作品の映像化には、これまでに、デリーロの脚本をマイケル・ホフマンが監督した『ライフ・イズ・ベースボール』(2005年)のほか、小説を原作とするデヴィッド・クローネンバーグ監督『コズモポリス』(2012年)、ブノワ・ジャコ監督『ネヴァー・ネヴァー』(2016年、原題"À jamais"原作『ボディ・アーティスト』)があるようだ。


『ホワイト・ノイズ』は毒物の流出事故という環境汚染をリアルに描く作品ではない。
作中では「空媒毒物現象」が描かれるが、そこで表示されるイメージ、例えば「ナイオディンD」などという化学物質は、単なる記号に過ぎす、全ては抽象的で登場人物の不安をいたずらに煽る効果しか与えないものだ。ここで描かれているポイントは不安助長であり、これらはその仕掛けにすぎない。

私たちもコロナ禍を経験したばかりなので、聞きなれない単語で不安だけが増幅する気持ちを少なからず理解できるのではないだろうか。

この『ホワイト・ノイズ』でも主人公ジャックたちの住む、あの地域一体の住民はパニックに陥る。雨に打たられたら致命的、外に出たらまずい。自分たちの身近に死が迫ってきている。そういう極度の真偽不明な憶測が恐怖を増大させる。人々の不安でざわざわしている描写には、どこか既視感があるだろう。
そこにいかにも恐ろしげな稲光雲が出現して、道路の車列にいた人々がそれを茫然と見上げるシーンは、ものすごく意味深でこの世の終わりを告げているかのようだ。
何もかもが不安という漠然とした概念でしか語れない。だが、人間はそれに怯えることしか出来ない。


本作の主となるテーマは"死"であり、そこから逃れようとする人間の根源的な恐怖だ。

バームバック監督はIndie Wireのインタビュー記事の中でも、

「この物語は、私たち人間がどうにかして死を娯楽に昇華させた方法を物語っています。」

と語っており、空から人体に有毒な雨が降ってくるという体験をしてしまった人間がどういう心理状態になるのかを、信仰や愛、家族や薬物を絡めつつ描きながら、死という避けられないものに対する"対処"を見つめてゆく。それはそのままコロナ禍を生きる私たちの実像であり、同時に死と向き合い続けた人間自体の創意工夫や滑稽さをも暴き出す。

本作の冒頭では「映画の車のクラッシュはアメリカの伝統だ」「複雑な人間感情よりも炎や爆発を描くようになった」「バイオレンスの向こうに無邪気な喜びがあるんだ」と、映画を観ている観客を挑発するかのような言葉も投げ掛けられる。
私たちは死や健康被害の不安を恐れるが、ときにそうした不安をエンターテインメントとして消費もしている。


家族とはデマの温床。
本作、『ホワイト・ノイズ』のジャックの家族たちは、どのメンバーも不安を煽る要素のある人間の、ある種のカリカチュアである。
ジャックは落ち着いているようでいてどこか頼りない。アダム・ドライバーが演じることで、その余計にダメそうな感じが滲んでいて親近感を覚える。
妻のバベットは私的な治験に参加して、恐怖を薬で克服しようと追い詰められていた。ミスター・グレーと体の関係で薬を手に入れたことも告白するが、それによってますますジャックが滅入ってしまうという展開が、この家の家長制が十全に機能していないことを物語っている。
子供たちもまた、不安の要素の塊のような存在として描かれ、いつもバイザーをつけているデニースは環境物質の話題に敏感で、バベットの行動の一挙手一投足を観察しているやばい子だ。ハインリッヒは凄惨な事故が好きという不謹慎な趣味があり、ステフィは人形がないとことさらパニックになりがちだ。
ノア・バームバック監督は、家族の描写に関してはとても上手い。少なくともこの家族に関してはもう少し見守っていたかったと思うくらいにはチャーミングで親しみが感じられた。


ジャックはヒトラー研究家であり、第2章の展開の発端となる事故とのカットバックで、カリスマ的勢いを感じさせる講義で、学生たちを感心させるシーンが挟まれる。その講義自体もまた、毒物流出事故とはまた異なるベクトルで、社会不安の火種を暗示させるものだ。ドイツ語が話せなくても、第2、第3のヒトラーはいくらでも生まれるだろう、という。
家に帰ると子どもたちは飛行機の墜落映像を興味深そうに眺めている。こうしてみると“死”を見る構図が意図的に練り込まれているのが分かる。

ダンプカーと貨物列車が衝突したことで有毒物質が外に出てしまいパンデミックが起こるのだが、周囲の人間が最初に示すのは野次馬的な興味だ。「自分たちに危害が及ばない」と信じている“対岸の火事”状態から渦中に飲み込まれる際の恐怖、それを第2章で起こすために、あえてほとんど何も起こらない状態に作り上げた第1章が興味深い。


静の演出に抑えた第1章から一転して、続く第2章はバームバック監督流のパニック映画の様相を呈してくる。
夕食中に避難勧告が出され、最初は真面目に取り合わない家族たちが、近隣の住民が逃げ出したことで、自分たちもその対象であったと、ようやく身に染みて逃げ出す展開や、正誤の判断がつかないまま情報が飛び交い、持論を展開してカリスマと崇められる者、オカルトに傾倒する者等々、私たちがコロナ禍で実際に経験した"人間が変わる"姿がテンポよく描かれていく。

バームバック監督は、

「映画やテレビ、ラジオから私たちがどれほど影響を受けているかについても書かれています。」

と、説明している。
これは前述した「娯楽として死を楽しむ」部分だけでなく、「情報に左右される」という意味でもそうだ。本作の舞台となった80年代は、現在のようにインターネットやSNSが普及しているわけではなく、より「わからない」恐怖が強まっている。

その影響を受けたものとして最も大きいのは、ジャックとバベットという夫婦関係が変容してしまう部分で、タナトフォビア(死恐怖症)のような精神衰弱が両者の間に溝や秘密を作っていく。そして時を同じくして、ジャックは死を司るような謎の男の幻影を見るようにもなり、これらは第3章の布石としても機能し始める。


第2章で、「ひょっとして今現在のコロナ禍のように何年もこの状態が続いていくのか?」と思わせながら、あっけなく避難生活は終わり、人々はこれまで通りの生活に戻っていく。
しかし、仮に頭上の雲がなくなったとしても、心の内に芽生えてしまった恐怖の記憶は雲散霧消しない。「いつかまたこうなるかもしれない」という不安が頭にへばりつき、ジャックとバベットの生活を蝕んでゆく。幻影に苛まれる夫と、不可解な行動が加速する妻。

やがてバベットの口から真相が語られ、ジャックは思いもよらない行動を起こすのが顛末だ。

こうしたある種"仮想コロナ"を描いた映画が我々が直面している"いま"の先、つまり危機は完全に去ったと言われた状態でどうなるかを示している点は、ある種、絶望的でもある。危機はいつか去るという希望を描きつつ、新しい日常こそあれ、旧来の日常は真の意味で帰ってこないからだ。

言い換えるのなら、コロナ禍の現状を鑑みると、今後私たちが生きるのは"アフター・コロナ"の世界であり、"ビフォア・コロナ"には戻ることが出来ないということだ。


トラウマやPTSDもその一種だろうが、この先の『ホワイト・ノイズ』の"被災者"たちは雨雲や雨に怯えるだろう。つまり、ある日を境に完全に解放されることは恐らくなく、各々がどこかで区切りや折り合いをつけていくしかないのだということ。そして、死はずっと身近にあったのだということだ。

健康に気を遣ってスーパーで買うもの、食べるものを選択することもまた、根本的には死を避けるためのものだ。本作のテーマによって、その気付きを得た私たちが今後どうそれを活かしてゆくか、それが問われている。


劇中に登場するシスター兼医師はこう語る。「誰も信じないことを信じるのが仕事」「信じないと世界が崩壊する」と。死を娯楽とし、死を直視した我々は「破滅を意識しながらも希望をでっちあげる」彼らの姿をどう受け止めるか。忌避か、受容か。それを選択することこそが、約40年前のデリーロの出世作を再びこの世に引っ張り出してまで、本作を通じて私たちにこの狂騒を見せたバームバック監督の狙いなのだ。
朱音

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