愛鳥家ハチ

正欲の愛鳥家ハチのネタバレレビュー・内容・結末

正欲(2023年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

第36回東京国際映画祭にて観客賞受賞、岸善幸監督が最優秀監督賞受賞。同映画祭の観客賞受賞スロットにて本作と相まみえました。朝井リョウの原作小説は未読の状態です。やや長めではありますが、以下トピック毎に論じてみたいと思います。

ーータイトル
本作『正欲』の英題は"(Ab) normal desire"であり、英題を日本語に逆翻訳すると「(異常な)あるいは正常な欲求」になります。邦題は素直に読めば「正」しい「欲」求を意味するのみですが、"正しさ"は相対的な概念である以上、誰かにとっての"正常な欲求(normal desire)"は誰かにとっては"異常な欲求(abnormal desire)"でもあり得るわけです。その意味で、英題は邦題の持つ二面性をシンプルに括弧を用いて可視化してくれているといえます。
 また、「セイヨク」という発声から想起するのは100%"性欲"であり、ややアブノーマルな響きを醸しつつも、他方で、漢字での表記は品行方正な『正欲』となっているのもポイントです。"正しい欲求"に覆い隠された、ある種の後ろ暗さのある"性欲"という奥深さを表現できるのも、漢字という記号ならではといえます。

ーー水?
冒頭のベッドの中で水に浸されていく桐生(新垣結衣)のシーンはとてもアート性が高く、ウェットな隠喩として白眉だなと思いましたが、まさかそのまま水嗜好が主要なモチーフになるとは思いませんでした。もっとも、未だに純粋な水嗜好の話であったのか、水は何かもっと他の嗜好の隠喩であったのか判断しかねています。
 人畜無害な"水"を嗜好の対象に据えることで、生々しい表現を回避しようとした原作者の意図があったのかもしれません。作中で"性"を後ろ暗いものと認めつつ、同時に本作もその認識通りに直截な性表現を一切排していましたが、それはそのような作者の意図を汲んでいたからこそという解釈もあり得なくはないのだと考えています。
 ただ、"水嗜好とかありえないでしょう"という認識は検察官の寺井(稲垣吾郎)のそれと同一であり、上記解釈はそうした認識を前提とするものですので、本作が糾弾しようとした軽薄な世界認識を自分自身が有していることを炙り出されている気もしており、それはとりもなおさず原作者の企みにまんまと嵌ってしまっていることに他ならないのかもしれず、本作の奥行きに慄いている次第です。

ーーそれぞれの正欲(無欲)
かりに佐々木(磯村勇斗)が紛れもない水嗜好の持ち主であったとしても、個人的には、佐々木は他者に対して性的欲求を抱くことがないアセクシャル(無性愛)であったのではないかと想像しています。
 また、諸橋大也(佐藤寛太)は水嗜好を媒介させた同性愛(あるいは性自認が女性である場合の異性愛)指向を有していたことが窺われます。
 そして、群像劇におけるメインキャラクターの1人である桐生は、実は水嗜好の持ち主ではなかったのだと解釈しています。桐生は一途に佐々木が好きだった。水に強いこだわりがあるように見えるのも、水道破壊の噴水シーンという水の美しさが際立つ出来事を佐々木と共有したことで(前提としてサトルフジワラの新聞記事に関心を寄せていたという共通点はあったにせよ)、佐々木への想いと水の美しさを重ね合わせ、融合させ、分かちがたい感情を覚えるに至ったのではないかと考えています。佐々木への愛情を水に投影したのではないかと。

ーー分かり合える人を大切に
"普通"を渇望しつつも"普通"になり得ない桐生と佐々木は結婚することで、世間の目を欺き"普通"を擬態しています。イオンモールの妊婦のように"普通"を強要するお節介な存在が象徴的ですが、そのような存在を遠ざける左手薬指の金属の輪は、魔除けであり擬態のキーアイテムといえます(指輪があったらあったで"子供は?"と無粋な質問が来ることは明白ですが…)。そもそも偽装結婚による擬態を選択させてしまう社会的な圧力こそが問題であることは間違いありません。ただ、お互いを理解し信頼できる関係を築ける相手は貴重です。そういう方との出会いはご縁、運命と言ってよいと思います。相互理解が困難な社会にあって、分かり合える人の存在は偉大であり、そういう方を大切にすべきとのメッセージを受け取りました。互いに理解し合いたいという欲求、それだけは絶対的に"正しい欲求"なのでしょう。

ーー分かり合えないことを知る
しかし、本作は分かり合うことの難しさもまた伝えています。水と油が混ざらないのと同様に、"混ざり合わないものを知れ"と言われているような気がしました(もちろん水と油は化学的には乳化作用により混ざります。しかし乳化された液体はもはや水でも油でもないわけです)。本作は、水と油は混ざらないし混ざる必要もないということを伝えてくれています。桐生の「地球に留学している感覚」という呟きは、自分がマジョリティに混ざり合えない存在であることを示した象徴的な台詞といえます。

ーー多様性とは
多様性とは実に味わい深い概念です。近年とみに喧伝される概念でもあります。私は、多様性のある社会とは、水と油が混ざり合わないことを知り、それぞれがそれぞれを理解し合わずとも、存在そのものを尊重する姿勢に溢れた社会をいうのだと考えています。フランスの思想家ヴォルテールの「私はあなたが言う事には賛成しないが、私はあなたがそれを言う権利を死んでも護るだろう」との名言は表現の自由の重要性を語る際にしばしば引用される言葉ですが、多様性のある社会をもたらす基盤としても意義深い内容であると思います。水と油は互いに理解し合うことは難しいけれども、互いの存在は尊重し合おう、今を生きる私たちはそんな心構えを持たなければならないのではないかと感じています。

ーー建前に逃げない
学祭の打ち合わせのシーンで諸橋大也が指弾したように、マイノリティの苦しみの表層のみを掠め取り、わかったふりをしたうえで演目に採用するのは"盗用"であるとの意見はその通りだと思います。理解のある風を装う"仕草"を一歩引いてみる視点と申しますか、ともすれば軽佻浮薄に流れてしまう世間の風潮を抉り取る描写もまた優れていました。
 また、空き教室で神戸八重子(東野絢香)が諸橋大也に本音をさらけ出すシーンは余りにも真に迫るものであり、演技の域を超越してしたのではないかと錯覚する程です。そんな決死の思いのカミングアウトに対して通常は共感し理解を示すものと思いますが、大也はそんな八重子に張り手を食らわすかのように突き放します。しかし、それでもなお真摯に寄り添おうとする八重子に対し、表情の微かな変化と眼差しでもって応える大也。この瞬間に2人は確かに通じ合った、生きづらい者同士であることを理解し合ったといえます。捻りを加えつつも心に響く一連のシークエンスは、本作の最大の見所の一つでしょう。建前に逃げず、ひりひりするような本音をぶつけ合うことの凄みを伝えてくれています。

ーー検察官・寺井
個人的には、マジョリティの論理を振りかざす寺井の職業が検察官であったことは設定の妙であったと考えています。検察官は「公益の代表者」(検察庁法第4条)とされており、刑事事件について捜査及び起訴・不起訴の処分を行うことのほか、民法等においても数多くの権限が与えられています。また劇中でも映り込んでいた検察官のバッジですが、これは秋におりる霜と夏の厳しい日差しを意味する「秋霜烈日」をモチーフにしており、刑罰や志操の厳しさを表しています。つまり、検察官の職務がいかに峻厳なものかということです。公務員(パブリック・サーバント)として公に仕えるのみならず、公益を"代表"するのが検察官なわけです。自転車事故の多い場所について市に申し入れをしたというエピソードは、公益の代表者"らしさ"をさりげなく描いていたといえるでしょう。
 そうした性質を勘案すると、寺井の"厳しさ"は一貫しています。しかし市民としての常識的な振る舞いも忘れていません。単に厳しいわけではないのです。昭和、平成まで価値観をバックデートさせたのならば、寺井の発言は"正しい"といえるのかもしれません。確かに寺井は冷たい男でしょう。妻と子に寄り添えない夫であり父であることに違いはありません。ただ、"正しさ"のアップデートには時間がかかります。そのため、寺井が作中のような振る舞いをしたことは、無理からぬことであったと思うのです。ラストシーンで桐生と検察事務官に取り残された寺井が何を考えていたのかは分かりません。しかしあの瞬間、私は、寺井の価値観のアップデートが始まったのだと考えています。

ーーキャッチコピー
本作の消化には時間がかかりました。いや、未だに消化しきれている感覚がありません。更に言えば、本作には"遅効性の劇薬"が仕込まれていると思います。正直なところ、エンドロールが流れ始めた刹那に「あれ?ここで終わり?」という感想が頭をもたげたのは事実です。3時間超えの長尺にして、もっとじっくりみっちり描いてほしいと思っていま"した"。
 しかし、群像劇における各登場人物のエピソードは、それぞれがざらざらとした苦悩に満ちており、観る者の心に丁寧にトゲを刺していきます(イオンモールのエアウィーブ売り場でブチギレるシーンは実に不穏でザラついていました)。そして植え込まれたトゲは抜けず、鑑賞後も滞留したトゲは観客の体内を巡ります。それはまるで登場人物の苦悶の追体験を強いているかのよう。じわじわと作品世界が侵食してくる感覚とでも申しましょうか。「観る前の自分には戻れない」というキャッチコピーは決して誇大ではないと実感できます。

ーー擦り切れた演技
また、本作の俳優陣の卓越した演技に万雷の喝采を送りたい気持ちです。それぞれが摩耗しきった感情を表現しており、とりわけ稲垣吾郎、新垣結衣の両氏はそれぞれの持つイメージを見事に塗り替えてくれました。特に本作で描かれた新垣結衣は自分の知っているガッキーではなく、ガッキーによく似た誰か別の方が出演しているのではないかと思ったほどです。容貌認識にエラーを生じさせる程の怪演に大変引き込まれました。

ーー東京国際映画祭
最後に、国際映画祭では基本的に英語の字幕が付きますが、テレビやラジオの音声やチラシの記載に英語字幕をつけながらも、ダンスシーンにおいて歌詞を訳さなかったところに、ダンスが言語を超えることを示してくれているようで実に粋だなと思いました。また、映画祭ではエンドロール後に自然と拍手が沸き起こりますが、作品に対してのとても素晴らしいリスペクトの仕方だと思います。私も本作に大きな拍手をいたしました。
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