愛鳥家ハチ

哀れなるものたちの愛鳥家ハチのネタバレレビュー・内容・結末

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

絵馬石さんの女優魂を感じる一作。エロとグロとナンセンスが渾然一体となった大人のためのおとぎ話。以下では、"反転"をキー概念として感想を申し述べます。

ーー良識からの反転
全体的に、エロとグロが無くとも作品としては成立しそうではあるものの(あるいはR-18ではなくR-15でも訴求しそうではあるものの)、"エロ"としてカテゴライズされ普段は密室に隔絶される"性"を真正面から描き出したことで、良識の色眼鏡から性をタブー視することの滑稽さを浮き彫りにし、ベラのように純粋に性に向き合う生き方の方がよほど"生"に真摯なのではないかと問いかけてくれているような気がします。

ーー表層からの反転
グロテスクな描写についても、"生"を包む皮膚の下に確かに存在する器官たちの機能的な働きに思いを致さしめ、"生"は決して皮膚からなる表層のみによって終始するのではないことを教えてくれます。ただ確かに、胎児の脳を死者に移植することや豚鶏を筆頭に、宮崎駿監督ならば「極めてなにか生命に対する侮辱を感じます」とでも言いそうなモティーフが散りばめられていたのも事実です(最前列で観たのも影響してか、特に脳を輪切りするシーンではすこし吐き気を催しそうになったのは正直なところ)。しかし、節度ある露悪が本作に良いスパイスを加えていたのも事実であり、その辺りが許容できるか否かが本作の鑑賞後感を左右しそうです。

ーーベラとゴドウィンの反転
まず、本作のようなフランケン・シュタイン系の物語であれば一般的には改造された側が風変わりな見た目をしていますが(『シザーハンズ』等)、本作ではマッドサイエンティスト側の顔に人為的な傷跡が刻まれているという反転がみられました。新たな命として覚醒したベラはうなじと腹部という容易には分からない部位に傷跡があるのみであり、その見目は徹底的に"うつくしきもの"として描かれています。他方、ウィレム・デフォー演ずるゴトウィン・バクスター教授の顔には、彼の父の冷徹な実験精神によって付けられたであろう傷が幾つもみられます。直線的な傷跡は悪い意味で真っ直ぐな科学的精神の発露であることを暗喩しているとも思われ、同時に彼の父から受けた心的外傷の具象化と解釈することもできそうです。

ーーベラとダンカンの反転
預金も中身も空っぽになった弁護士ダンカンの終盤の情けなさといったらありません。運命的な導きによりセックスワーカーとして自立的に稼ぐベラに対し、全てを失ったと自嘲するダンカンですが、何もかも失われたように見えても、その頭の中の知識は誰にも奪えないはず。弁護士であれば弁舌と六法のみで活路を拓くことができるわけです。船上でベラは本から知識を貪りますが、その本を無情にも海中に投げ捨てたのは他ならぬダンカンその人です。ダンカン自身は知識によって身を立てながらも、ベラが知識を得て力を付けることをよしとしません。そのような狭隘な人間性を露呈しつつ、最後には自らの持つ知識を信頼できずただ嘆き悲しむ弱さを晒すダンカンと、己の力に立ち返って活路を見出すベラとの対比が際立ちます。騎乗位から二人の行為が始まっていた時点で、ベラはダンカンの"上位にいる"ことが暗示されていたのかもしれません。

ーーベラの価値観の反転
エジプトのアレキサンドリアでベラはこの世の不条理に触れます。ベラは人としてダンカンよりも高位の存在であると言えますが、ベラ自身はアレキサンドリアで貧苦にあえぐ人々よりも自分が上位・上層にいることが耐えられません。砂上の楼閣の階段を駆け降りるも、階段が途中で崩れておりベラ自身は下層に至ることはできないわけですが、その後にお金をかき集めて喜捨をする描写は、ベラのノブレス・オブリージュであり、ベラの持つ既知の価値観の反転を意味していたのだと思います。

ーー死から生への反転
ある女性が死に、新たな存在として再生し、育ち、学び、愛で、強く自己を確立していくこと、しかも同じ肉体を通じて。このことは、じつは日々のわれわれにも重ね合わせることができるのではないかと思います。私たちは生きている限り同じ肉体を身にまとっています。ですが、新たな価値観に触れ、新たな学びを得、新たな力が湧き出れば、現実に絶望することもなく、ベラのように強く現実に立ち向かうことができるのではないでしょうか。本作は、現代を生きるベラたちに捧げられた応援歌なのだと思います。勇気付けられる一作です。
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