kuu

葬送のカーネーションのkuuのレビュー・感想・評価

葬送のカーネーション(2022年製作の映画)
3.7
『葬送のカーネーション』
原題 Bir Tutam Karanfil/Cloves & Carnations      
映倫区分 G
製作年 2022年。上映時間 103分。
劇場公開日 2024年1月12日。
トルコの気鋭監督ベキル・ビュルビュルが、亡き妻を埋葬するため棺を背負って歩き続ける老人とその孫娘の旅を、リアリズムと虚構を交差させながら描いたトルコ・ベルギー合作ドラマ。
シリア出身で、戦争から逃れるためトルコに移住した新人俳優シャム・シェリット・ゼイダンが孫娘ハリメ、トルコの映画・舞台・テレビドラマで活躍するデミル・パルスジャンが祖父ムサを演じた。
2022年・第35回東京国際映画祭『アジアの未来』部門では『クローブとカーネーション』のタイトルで上映されている。

荒涼とした冬のトルコ南東部。
年老いた男性ムサは他界した妻との約束を守るため、彼女の遺体を故郷の地に埋葬するべく棺を背負って旅をしている。
紛争の続く地域へ帰りたくない孫娘ハリメは、親を亡くし仕方なくムサと行動をともにする。
彼らは旅の途中で出会ったさまざまな人たちから、神の啓示のような“生きる言葉”を授かりながら進み続ける。

『葬送』って、死者と最後の別れをし、火葬場、墓地に送り出すことだそうだ。
また、そのための儀式で、古くは、ってか、以前なら、野辺送りの方が耳馴染みがある。
しかし、先日、嵌まりにハマったアニメの2期が終了し『続編制作の発表なし』ってニュースにフリーレン・ロス中のお陰で『葬送』は温かみさえ感じる言葉となってる。
そんな『葬送』を邦題に冠してる今作品は、自分の死体を祖国に埋めたいと願う難民が、ムサという名の祖父とハリメという名の孫娘を通して国境を目指す物語でした。
そうすることで、映画は主人公たちに語らせることなく、祖父と孫娘の異なる世界、感情、思考、未来に対する意思を映像と出来事を通して伝えている。
この点から、今作品は観客に、場所に縛られること(祖父)と、場所に属さず夢に逃避すること(孫)の違いを示したいよう。
そして、それは実現していた。
今作品の脚本家であるビュシュラ・ビュルビュルは、今作品の監督であり彼女の夫でもあるベキル・ビュルビュルの祖父に関する新聞記事が、今作品のインスピレーションになったと述べている。
亡くなった親族を祖国に連れ帰りたいと願う難民が、一緒に暮らした祖父の村に行き、そこで死にたいと願うというニュースを読んだとき、脚本は明白になったに違いない。
難民であると同時に、オリジナルとの再会を望む人物の物語が浮かび上がってきたんやろな。
したがって、自分の死体を祖国へ運ぶ男の物語が表面的に流れる一方で、最愛の人との再会と祖国へ行こうともがく人間の旅が映画全体に流れている。
ラストの結婚式のシーンでは、祖国で死ぬことの幸せを描いていると思った。
旅先では、新聞に頻繁に出てくる難民虐待のニュースが十分に評価されておらず、この問題を読者を揺さぶるような厳しい表現で伝えるべきだと思う。
おそらく、今作品が難民問題を大きく抱えてる国の反難民感情の高まりに注意を喚起することを期待していたんやろな。
今作品が難民の物語、ドラマとして提示されたことも、それに一役買っていたのかもしれない。 監督と脚本家が、現在のトルコにおける難民の物語ではなく、この世で難民となった人物の物語を語りたいのだと気づいたとき、今作品に別の何かを求めた。
難民のドラマというよりは、棺桶を国境まで運ぼうとする男のようやった。
難民主義や難民のドラマについてのメッセージや感動はあまりない。
今作品で気に入った点は他に2つある。
ひとつは冬の季節の山と平野の風景、もうひとつは自国の人々の平凡な状況が自然体で描かれていること。
誰もが自分の世界と自分の悩みに浸っている中、祖父は棺を自分の国に運ぶこと以外には関心がなかった。
ハリメはそんなこととはつゆ知らず、自分の世界に生きている。
一方では、女としての本能で髪を弄び、おもちゃをゴミ箱に捨て、子供時代を捨て去り、他方では、絵を描くことで戦争時代を背負う。
彼女もまた、自分自身の旅と青春を歩んでいる。
だからこそ、監督と脚本家は、この世界の難民であることを思い出させてくれる。
映画を通して、ラストシーンまで棺の中にいるのが誰なのかわからない。
祖父の妻なんか、孫娘の母親なのか。
ラストシーンでは、棺の中に誰がいるのかがわかる。
ハリメと話す祖父と、絵で気持ちを伝える孫娘。
ハリメの絵を見たとき、多くを語る必要はない、戦争による痛み、破壊、貧困は絵でしか表現できないのだと気づいた。
一刻も早くこの世を去りたい祖父と、この世にとどまり家族と一緒に家で暮らしたい孫娘は、同じ人間の裏表のようなもの。
したがって、祖父と孫娘は我々であり、我々の異なるバージョンでもある。
一方はハリメであり、もう一方はムサである。 そうでなければ、私たちは完璧を達成することはできないし、生きることもできない。
祖父の悲痛で世を忍ぶような、何の期待も抱いていない態度は、見る者に感動を与える。 
席を立って棺を運ぶのを手伝いたいと思ったほどやった。
棺の中にいるのは死者なのか、それとも祖父なのか......。
墓場まで生き延びようとする死者のように思えた。
肉体の欲求をまったく感じさせないのは、まるで魂が自分の肉体をロバのように使い、用が済んだら井戸に投げ込もうとしているかのようやった。
我々が生きている時代から独立しているこの映画の特徴のひとつは、都市や町、目的地の国についての言及が一切ないこと。
これにより、観る者の注意を国ではなく、難民自身に集中させることができてる。
彼が旅先で出会う人々は、世界中のさまざまな性格やタイプの人々であり、葬儀とカーネーションの関係、葬儀の後にハリメが残したカーネーションのひとつまみ、あるいはハリメが描いた絵にちなんだものなのか、それとも私の知らないカーネーションの意味なのか、この映画がなぜこの名前なのか、ずっと考えていた。
これ以上話して、映画を見る楽しみを台無しにするネタバレはしたくない。
だから、上手く纏まらない文章ですがこれにて。
kuu

kuu