むぅ

ブラック・イナフ?!?-アメリカ黒人映画史-のむぅのレビュー・感想・評価

4.2
「地球人ね?」

無知による決めつけは、差別に繋がると痛感中。
先日『スーパーマン』を観て、あの人!人間じゃなかった!と大騒ぎした結果、友人にやんわり訂正された。
私の勝手な[地球人=人間]という決めつけ。確かにじゃあスーパーマンは何なんだと思ったものの、流してしまっていた(クリプトン星人)。
でも、要はそこなのだ。
私はスーパーマンが"人間"と変わらない容姿だったから"人間"と決めつけていて、クリプトン星で産まれたことを知り今度は"人間"じゃないと決めつけた。
これを偏見と言わずして何と言おうか。差別構造を強化する偏見。
いや、怖い。
これって「私は◯◯(マイノリティに属すること)じゃないけどw」と茶化したり、悪質な受け狙いによる発言の基本型では。
その当事者はそこにいないとしてされる発言。
いるかもしれないのに。例えいなくったって許される発言ではないのに。

私のレビューを読んでくださる方の中に、クリプトン星人やサイヤ人の方がいたらと思うとゾッとする。

スーパーマン、ごめんなさい。
アウェイもアウェイな状況で戦ってくれていたのに。
望んで地球に来たわけじゃなかったのに、いや望んで地球に来ていたとてよ。
私がクリプトン星で1人地球人として戦っている時に「あいつ人間じゃなかった」と茶化されたら、任務放棄して泣きべそで地球に帰るか、キレ散らかすかも。
ヤケ酒しようにもクリプトン星には氷結無糖やウーロンハイはないかもしれないし。もっと美味しいお酒があるかもしれないけど。


そこに自分がいるのに、いないものとして扱われたら?
また"決めつけ"で描かれたら?

今作は私の"スーパーマン"を、そのまま"黒人"に入れ替えたら説明がついてしまうドキュメンタリー。

アメリカ映画の転換期となった1970年代、アフリカ系アメリカ人の貢献という視点からその時代の映画を紐解く。
映画愛に溢れた作品でもある。


「偏見はないけど」
「差別する気はないけど」
その前置きから始まる差別的な発言に辟易とする事がある。
辟易としてる場合ではなかった。私にも"それ"はあるのだ。

「これきっと皮肉だよな?」
スパイク・リーの『ブラック・クランズマン』で突如バラエティ番組かのようにテイストが変わるシーンがあり、そこで言及された映画が"ブラックスプロイテーション"とされる作品だと知ったのは鑑賞後レビューや考察を読んでいる時のことだった。
"ブラックスプロイテーション"は白人が製作した、黒人を主人公にすることにより黒人の観客を見込んでエクスプロイテーション(搾取する)作品だという。
『ブラック・クランズマン』での"イジリ"は当事者であるブラック・リーだから出来ること。

ユーモアのある人でいたいと思うし、時にはエスプリをきかせたかったりする。
ただ"笑い"を起こす時、"笑う者"と"笑われる者"に分断されることがあって、そこには細心の注意が必要であるし、自分の属性も大いに関係するのだと改めて思った。

今作では数え切れないブラックスプロイテーションの映画が紹介されていく。観たことのある作品は少なく、知らない作品ばかりで"観たいリスト"にメモしたいものがたくさんあった。


「悟空には謝らなくていいんスか?悟空も人間じゃないって騒いだんスよね?」
スーパーマンどうだったんスかと言うので、人間じゃなかったと差別的な発言をしてしまいましたと自己申告していたところ、そう返ってきた。
「うぐ」
「あれっスよね、真面目なんだか不真面目なんだか絶妙なバランスっスよね」
何か言い返したい!と口を開こうとしたら
「そいつは単なる明るい酒呑みだぞ」
と後ろから声がした。
振り返ると同じくらい飲む同僚がニヤついていた。
許すよ、キミも当事者だもんね。
「私、酔って吐きたくなって自分の鞄に吐いたことありません」
「タクシーの運転手にはご英断!って言われたし」
「その人がいい人だっただけだし」

スか?スか?言ってきた当の本人はどこかにいなくなっていた。
いないものとして扱われるのは辛いが、この場合は仕方ない。
むぅ

むぅ