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殺人に関する短いフィルムのRのレビュー・感想・評価

殺人に関する短いフィルム(1987年製作の映画)
4.9
クシシュトフキェシロフスキ監督による十戒をモチーフにした鬱々たる10話の名作ドラマ『デカローグ』。昔から大大大好きなのだが、その中の「汝殺すことなかれ」篇を元の1時間から90分ほどの劇場版に編集し直したバージョン。すごい作品です。こんなヘヴィーな映画なかなかないよ。嫌になるくらいじーーーっくり描かれるふたつの殺人、個人による殺人と国家による殺人だ。冒頭、猫が殺したネズミが水の中に横たわり、殺した猫は首を吊られて殺されて、殺した子どもたちが走り去っていく。ここに本作のストーリーが端的に要約されている。主人公は鬱然とした面持ちのヤツェクという若者。彼は索漠たるワルシャワの街を、淡々と、孤独に、あてどなく、歩き回っている。写真屋で少女の写真の拡大を頼み、カフェに行くとテーブルの下に隠して何やらロープを準備している。同じ頃、底意地の悪いタクシー運転手が、正直そうな市民たちを小馬鹿にして、乗車拒否しまくりながら車を走らせている。また、別のところでは、法律事務所で口頭試問が行われ、死刑反対の意見を述べたピョートルは正式採用となる。彼は嬉しそうに恋人とカフェでお茶をする。ヤツェクのいるカフェで。彼らは知らぬもの同士、すれ違い、ヤツェクは意地悪運転手のタクシーに乗って街を離れて、人通りのない河岸で運転手を惨殺する。このシーンがすごい。人を殺すというプロセスが、殺されることの苦痛が、その苦しみの長さが、こんなに生々しい映画を他に見たことがない。行き当たりばったりに無残に殺されてしまうとは本当に最悪の経験だ。そして後半は主役が弁護士ピョートルにかわり、今度は国家が洗練された手続きを経て、まったく無関係な数多くの人間を巻き込みながら、同じ残忍さで人を殺すまでのプロセスが描かれる。その日、その時、その場所で、確実に自分が殺されると分かった上で殺されるというのも本当に最悪の経験だ。クライマックスのすさまじい切実さには、心臓が動悸を打ち、全身の鳥肌が立って、あまりのショックに呆然。本作は、明らかに汝殺すことなかれ、を死刑制度に対しても唱えている。見る側の死刑に対する賛成か不賛成で、本作の感じ方も大きく変わるかもしれない。いや? 変わるのか? 変わらないんじゃないか? これ見てざまあみろ! と言える人なんているのかな? 復讐心が満たされたと感じる人がいるのかな? ちなみに言うと、ボク自身は死刑精度には反対だ。様々な理由があるが、やっぱ一番は、どんなことがあろうとも、人間の命は絶対的に尊重されるべきものであると、決めとかないといけないと思うから。人間の命とはある特定の条件下では奪ってもよいものだと定め、命の重みが相対的なものであるということを、本当に法として認めていいのだろうか? たとえば子どもに命の大事さを教えるとき、人は絶対に殺してはダメです。でも、死刑と戦争は制度的にオッケーなので可です、ってそんなんアリ? しかも実際に殺人を犯すのは、死刑でも戦争でも、その件と全く関係のない人たちなのです。子どもたちはその矛盾をどう納得するのだろう。心の奥のどこかで、殺しがしょうがない状況というのは確かにあるよね、と解釈しないと誰に言えよう。ボクは幸い身近な人が殺される不幸に見舞われたことがないから、遺族の気持ちははっきり言って分からない。けど、遺族は本当に犯人が死刑になることで気持ちが救われるのだろうか、癒しが得られるのだろうか。気づかぬうちにもっと傷を深めることになりはしないだろうか。あと、本作を見ても分かる通り、殺人とは、無力な個人が、次々に襲いかかる不如意な運命に、押し流されに押し流され、孤独の淵に立たされ、怒りと鬱憤の渦巻く極限の状況の結果であると言える。それは全宇宙とまでは言わぬまでも、社会全体の歪みが凝縮したひとつの現象と言える。罪を憎んで人を憎まず、どころか、ガンジーは、罪を憎んで、罪人を愛しなさい、とまで言ってる。ピョートルがヤツェク!と心から叫んだとき、ヤツェクが感じたのはピョートルの愛だったのかもしれない。もちろん、ボクは死刑賛成派の意見や感情も認識しているし、それあんたら間違ってるわ、なんてことは絶対に言えない。その上で、やっぱり、人類の真の意味での発展は、理想を追いかけることによって達成されてきたと信じているし、ホントに長い目で見ると、命に絶対的な尊厳を与えることが人類の問題の解決への確実な一歩となることを信じています。とはいえ、結局、全人類がそれぞれに持つ自分という生への取り組み方がいちばん大きく大切な問題やとは思うけどね。とかね、もーとにかくいろんなことを考えさせられ、語りたくなる映画なのは間違いない。ヘヴィーやけど是非とも多くの人にオススメしたい一作です。
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