殺人に関する短いフィルムの作品情報・感想・評価

殺人に関する短いフィルム1987年製作の映画)

KROTKI FILM O ZABIJANIU

製作国:

上映時間:85分

ジャンル:

3.7

「殺人に関する短いフィルム」に投稿された感想・評価

カラン

カランの感想・評価

5.0
キェシロフスキー私的ルネサンス③、『殺人に関する短いフィルム』のレビュー。


黄色とは狂気の色なのである、と昔、20年ほど前の話だが、授業で教わった記憶がある。ゴッホのキャンバスには奥深いところから光が滲みだしている。画布の上に死んで動かなくなったかのように固着する油絵具によって命の躍動を描き出すために、フィンセント・ファン・ゴッホは狂気のイエローをタブローに仕込んだ。そんな内容の静かな、しかし少し変わった講義であったと思う。私にとって、それ以来、黄色は狂気を秘めることになった。



この映画は、汚らしい水たまりに横たわるネズミの死骸から始まる。中央が黄ばんでいて周辺が暗い青緑に沈んでいる画面。続いて、首を吊るされた猫の死体と、駆け出して一斉に去っていく子供たち。背景には薄暗い建物が林立する。この冒頭は、映画の予告になっている。

均質で、あれかこれか、区別がつきにくい旧ソビエト風の、社会主義諸国にたぶん林立していたであろうような陰鬱なタワーの正面ドアのガラスに、向かいに立つ同じように陰鬱なタワーが映っている。キェシロフスキーは、鏡を投入したのだ。この鏡は、オリジナルとイマージュの区別を曖昧にし、方位を見失わせ、映画の世界と鑑賞者の現実を溶かし込み、キェシロフスキーの善と悪の区別のつかない世界に、カフカのように猥雑な法の世界に、引き込む悪いドアである。それだけではない。この鏡としてのドアは、冒頭のシークエンスを折り返す蝶番であり、ネズミとネコと子供たちの関係性を反復する装置になっている。

ネコが嫌いだという男は、必ずや、ネコに殺されることになる。そしてネズミ男を殺すこのネコ男は、必ず、無邪気な子供たちに吊るし首にされることになる。そして子供たちは・・・、ネコ男の絞首刑を愉しみ(「これくらいですか?もっとですか?もっとですか?もっとですか?」)、またどこかに散っていくのだ。残された私たち、観客はどうすればいいのか?私たちはカインの話しをする弁護士になるしかないだろう。私たちをこのカインの弁護士と同一化させるために、キェシロフスキーは完璧なストーリーテリングを与え、演出の妙は冴え渡る。ネズミ男をネコ男が殺害するシークエンスももちろん狂っているが、絞首刑のくだりが一番奇怪なのだ。つまり子供たちがネコを絞首刑にすべく群がるところだ。

第1のアスペクト
ネズミ男は他人に冷淡だし(まだ他人が落とした使える雑巾をわざわざ拾って廃棄しようとする)、若い子に下品な目を向けるし、乗車拒否をするようなタクシー運転手なので、殺されて当然である、と観客には思える。『罪と罰』でラスコーリニコフに脳天を割られることになる強欲な高利貸しの老婆のようなものだ。だから、これだけでは『罪と罰』の読者は驚かない。ここはキェシロフスキーが、私たち観客の心を操作する第一の局面に過ぎない。この第一の局面で、ネズミ男は死んで当然であるから、ネコ男による殺人の実行もやむを得ないと、私たちは感じることになる。

第2のアスペクト
次に、ネコ男が、鳩を脅かすのと同じ意味で、ほとんど無益にも思える殺人を犯すとき、悪夢的な執拗さが出現することになる。ネズミ男がなかなか死に切らないので、ロープで引っ張り、締め上げて、鉄棒で何回も叩いて、さらに恐怖と快感が入り混じった奇声が漏れてしまうくらいに、石を何度も叩きつけて、布の下から血が滲みでるまで顔面を割らねばならない。何度も殺すのだ、1人の男を。デビット・リンチの『マルホランドドライブ』で殺し屋が謎のリストを持った男を殺す際、足の裏に付いた粘着物のように、執拗に殺人が連鎖して、ある男を殺そうとして、別の女まで殺すことになり、その女を殺そうとして、また別の男を殺す、といった調子の悪無限的な終わりのなさが描写されていた。こういう悪夢の中のしつこさ、つまりゾンビのように死んでくれない執拗さに、いよいよネコ男はサディスティックになっていき、無限に殺人を犯すことになるのは、キェシロフスキーによる私たちの心の操作の第二の局面である。私たちはこの第ニの局面で、執拗に残酷な行為を繰り返すネコ男に対して処罰を下すのは当然だろう、と考えることになる。そうだ、悪いネコは絞首刑にすべきだ。

第3のアスペクト
ここから、キェシロフスキーはもう一度観客の操作を試みる。ネコ男に悔悛させるのである。ネコ男の告白によれば、裁判の後、留置所に護送される際に、カインの弁護士に自分の名前を呼ばれて、はじめて我にかえったらしい。判決が出た後で、今さらのようにネコ男に罪の自覚の機会が与えられることになるのだが、思えば、ここで告白される《本当の自分》とは、鏡としてのドアがそうであったように、後生大事に持ち歩いてしわが入ってしまった写真を引き伸ばすというエピソードと、犯行の1時間前に喫茶店でガラス窓の向こう側の女の子にクリームを飛ばすというエピソードが、前もって予言していたものだ。こうしたことを、説明ではなく、イメージとエピソードを重ね合わせながら、パランプセストのように、映像を繊細な手つきで紐閉じ、どうあっても収拾のつかない狂った世界を、抵抗のないなめらかな映画にまで洗練させていくキェシロフスキーの手際は、ほとんど天才のそれである。

妹の写真に刻まれたしわが、ネコ男だ。その写真を引き伸ばして、母親に送りたい、とネコ男。自分は死んだ妹のイメージを傷つけ、視界を遮り、よく見えなくさせる、しわ、なのだ、それが自分の正体なのだ、とはっきり母親に伝えたいとネコ男は言っている。喫茶店の窓ガラスの向こう側から女の子が天使のように笑いかけている。その窓にネコ男はスプーンでクリームを飛ばす。ドロッとガラスの表面を垂れるクリームは糞便か精液のように、天使を汚しており、その汚れた天使にネコ男は優しく微笑む。なんという微笑であることか。私は『ライ麦畑でつかまえて』の妹のフィービーを見るホールデンの眼差しを思い出した。しかしネコ男は気づいていない、自分が妹を汚す糞便であり精液であることを。ネコ男の自我は分裂してしまっており、自分をまだ見失ったままである。本当の自分は、聖痕のように、写真に刻みこまれた、しわ、なのであり、窓に垂れる汚いクリームなのだ、ということをネコ男は気付いていなかった。妹を殺したのは、一緒に深酒したにも関わらずトラックを運転した友人ではない、自分なのだ、自分こそが妹の殺人犯なのだ、とネコ男が自分の内心の真理に気付くことになるのは、既に判決が出た後なのであった。人は自分の人生の真理に対して、常に遅ればせなのである。

こういう本当の自分の、真理の、抑圧の末路を私たちはよく知っている。ネコ男がネズミ男を殺すのは、無論、弟アベルを殺害した兄カインのように、兄妹殺しの罰をうけるためだ。自分は視界を妨げる写真の「しわ」だ、自分は天使の微笑みを汚す糞便か精液だ、自分は妹殺しの兄だ、自分は処罰されなければならない有罪者だ。自分はネズミ男だ。自分は石で頭を割って殺されるべき人間なのだ。まことに、サディズムとは自分の外部に向けられた死の欲動である。しかしまたその欲望の強度は自罰欲求としてのマゾヒズムが裏張りしているのだ。自分は有罪で処罰が必要なのだと感じるほどに、つまりマゾヒズムが強くなるほどに、外部に放出される圧も高くなる、つまりサディズムの強迫の度合いも強くなるのだ。

こうしたサド=マゾとしてのネズミ=ネコの殺害を介して、自分のもとに戻ってきたネコ男を、もはや殺す必要はあるまい。2度殺す必要がある人間とは誰か?ネズミ男と共に彼はもう死んだのだ。そしてカインの弁護士も言うとおり、極計を課すことが犯罪に対して抑止効果を発揮するわけでもないだろう。これがキェシロフスキーによる心の操作の第三の局面である。この操作によって私たちは感じるのだ、ネコ男を2度殺す必要はない。もう少し、可哀そうなネコ男の話を聞いてやるべきだ、と。ネコ男は自分が何をしているのか知らなかっただけだ。「父よ、あの人たちをお赦し下さい。彼らは自分のしていることを知らないのです。」Forgive them, Father, for they know not what they do. しかし、ここ、この映画の世界は、鏡の世界である。悪いネコは子供たちによって必ず首を吊るされる。


『殺人に関する短いフィルム』のこの後の顛末について、これ以上説明する必要はなかろう。殺す必要のない男を殺すのは、私たち自身の欲望である。寄ってたかってネコを吊るし上げる「子供たち」が一番奇怪で、一番淫猥で、一番歪んでいる。そのことを完璧に暴露されて、カインの弁護士のように茫然と取り残されることになるのは、私たち自身なのだ。こうした帰結は、おそらくたいていの観客にとっては不愉快で理解に苦しむものであろうが、それをどう受け止めるのかはキェシロフスキー監督の問題ではない。後は勝手にどうぞ、とでも言わんばかりの監督の去り際は、毅然としており、いかにも芸術家然とした背中に拍手を送りたい。



冒頭でゴッホの生が躍動する狂気のイエローの話をしたが、ゴッホとは違う仕方で、黄色を印象的に使っていた画家がいた。ジョルジュ・デ・キリコだ。晩年には、アンドレ・ブルトンに「あいつはもうだめだ、自分の絵を模写している」と切り捨てられることになった、というエピソードを聞いたことがあるが、若い頃の作品は印象的である。有名な『通りの神秘と憂愁』や『ある一日の謎』の、感傷的でありながら全てを陽のもとに曝す黄色の通り。薄暗い人気のない建造物。遠近法の消失点がずれている、子供が造形したような稚拙で歪んだ世界観。煙が静止しており動いているのか止まっているのか分からない汽車。世界に突き刺さっているとでもいった調子のファリックな煙突から真横に流れ出る黒い煙。キェシロフスキーは若きデ・キリコのタブローを舞台にして、カフカとドストエフスキーの人物たちを配置しながら、この映画を作ったのであろうか。


タクシー運転手の、「こいつなら殺されて当然じゃね」と思わせるような軽薄なクズさ加減が、観客の倫理(道徳じゃないよ)を問うているような感じがした。
Nishmarra

Nishmarraの感想・評価

4.2
もはやだれがマトモなんかわからん。
ちょっと『異邦人』思い出した。
hk

hkの感想・評価

-
好きな絵だった。
後から足された妹と弁護士のエピソードがなくても好きだった。

殺人vs殺人
haru

haruの感想・評価

4.0

このレビューはネタバレを含みます

誰も救えないほどの孤独。

若者がオッさんを殺す話なんですけど、殺害シーンが本当に生々しい上、ラストの死刑執行シーンまでどぎつく、最後までものすごい緊張感。寝る前に見るやつじゃなかった。
犯人の若者は一見どこにでもいそうな子で、そこそこ性格悪いですけど、人を殺しそうにはとても見えない。一方、殺されてしまうタクシー運転手のオッさんも、そこそこ意地が悪いけど、殺されるほどの悪人ではない。若者は初めから誰かを殺そうとしていたのですが、相手は誰でも良かった。タクシー運転手のオッさんが狙われたのは、本当に(最悪の)偶然だったのです。
なぜ彼が見ず知らずの他人を殺したのか、明確な理由は語られませんでしたが、深すぎる孤独や絶望が、殺人という想像できない行為によって、消えてなくなると思ったのでしょうか。殺害道具を準備しながら、ふと小さな女の子たちに向ける笑顔が忘れられません。あのとき彼の視線の先にいたのは、もう会えない大切な人。しかし、それは彼を思いとどまらせることはできませんでした。
一人で抱え込んで奈落の底に落ちてしまうと、もう誰も救うことはできなくなってしまう。自分なんかどうなってもかまわないと思っていても、最期には「死にたくない」と強く思う。死刑とは、罪を犯したことを後悔させる最後の手段なんだと思いました。
レンタル鑑賞。
鬱々とした陰湿なものが
無意味に描かれるがだけの作品かと思っていたけど違った。
かなり深みのある、中身の濃い作品。
自分的には無意味な感じのままが好みでしたが
ノスタルジックな色合いといい
画の表現が素晴らしく、それだけで見入ってしまう。
窓ガラスに滲むコーヒー
屈託のない笑顔が好き。
きむら

きむらの感想・評価

3.7

このレビューはネタバレを含みます

運命とか偶然とか
画が素敵

彼のニヤッと笑う顔と「死にたくない」が頭から離れません
324

324の感想・評価

3.7
他に類を見ない画には目を見張る。セピア。しかし、盛り盛りアンナチュラル過ぎて序盤以降からは食傷気味になる。
【偶然】個人のメモ・雑記
キェシロフスキ監督の生前のインタビューは、氏自身や彼の映画に関する情報が実に多くのヴァリエーションに基づくという点を気づかせる。「ヴァリエーション」と言ったのは、「誤解」とも「思い込み、思い入れ」とも言い直せるが、いい意味で言えば、氏の作品の受容、理解が多様であるということでもあり、つまり、それは作品に対する各様のFavourite(「大好き」)があるということだ。氏が作品の一義的な解釈や、感情を排除した言葉への還元化に対して極端に嫌悪したように、それは氏自身が望む受容のあり様でもあったと思う。

この作品『偶然』については、面白い氏自身の言葉をここに記しておく。

氏はよく、自分が「偶然」をテーマにする作家の「権化 incarnation」のように言われることを多少当惑しながらも、インタビュアーに親切に、でもクールに突き放すように簡潔に答えている。とても氏の人柄が偲ばれ面白いなと思う。

それは、氏自身の、映画のテーマが「偶然」だとヒトから思われている、ヒトから言われ続けている点に関するもので、まず氏はきっぱりと「それは誤解だな」と断っている。そしてその誤解の元になっている氏なりに考えた理由をあっさりと話している。

「そもそもこの誤解の始まりは、僕はかつて撮影した、『偶然』という題名の作品があってね、それ以来さ。僕が「偶然」のスペシャリストだって、「偶然」が僕の映画作りの人生をかり立てているとか、僕が「偶然」を世界で一番大事だと考えているとか、それ以来、確かに人から言われるようになったね。「偶然」が世界で一番大切だ、映画のテーマだとは僕なら言わないよ。僕の映画に登場する「偶然」の数は、他の映画のそれと同じであって、それ以上でも以下でもない。」

「赤の愛」のラストがきわめて稀な「偶然」の一致だという批評家やこのインタヴュアーの指摘に対して氏は続ける。

「あなたは大きな誤解をしている。あの3篇(トリコロール三部作)の映画が撮影された理由は、あの6人が悲惨な事故から生還した人々だったという、まさにその点にあるんだ。いかなる偶然なんかにもよったんじゃない。」

氏はそこに、「神」や、何か「運命」と言ったものをほのめかしているようでもあるのだが、それについても独特のユーモアを交えて答えている。

「仮にも、神のような何かが存在していて、それが、僕らを取り巻くあらゆるものを創造したのだとしても、僕らは実に頻繁に毎日だってその創造主の手からもれて溢れ落ちてしまっている。例えば世界史だって、ポーランドの歴史を見てくれ、どんな歴史観に立とうとも、僕らがその創造主の手からいつも溢れ落ちていることは明らかだよ。」

【付記】ここフィルマークス掲載の写真は、DVDソフトのパッケージ写真で、『偶然』ともう一つ『殺人に関する短いフィルム』が収録されている。そちらのレヴューも何点かについて付記した。『偶然』 (1982年製作の映画) 2018/01/11 14:37 記

【殺人に関する短いフィルム】メモ。個人的な雑感。
氏の作品は、一部のドキュメンタリーを除けば数多くの作品群、ほぼ40作品ほど全てが鑑賞できるということは幸運であると思う。同時に、当然その作品が受容されていた状況に近づけて見るという体験はできないことをどう感じるかの問題は残る。劇場で観る、しかも氏が作品を発し言語を介したその母国の地で、その母語を話す人々の中に混じり、大抵の作品がテレビを前にしたお茶の間で受容されていた時代に、今、劇場で見る、あるいはインターネットやネット配信・レンタルで見る・・・ その需要の相が様々な中で氏の作品を見ることに違いはあるのだろうか?

キェシロフスキ氏の遺稿となった三部作「天国」「地獄」「煉獄」について、それぞれが受け継がれて映画化されている。「天国」は2002年の『ヘブン(Heaven)』、「地獄」は2005年の『美しき運命の傷跡(L’enfer)』、そして「煉獄」は2007年に『Naděje(希望)』として、それぞれを稿を改めて再度ブログ上で記す予定。

【ヘブン】個人のメモ・雑記
この『ヘブン』の映画化はトム・ティクヴァ監督によった。ティクヴァ氏の『ラン・ローラ・ラン』も氏からの影響大だと散々と言われて、監督自身も特に否定はしていないし、そしてそれが別に悪いことだとは思わない。この『ローラ』鑑賞から受けるのは、『偶然』とは全く異なる作品であるという点だ。氏の作品受容の相を想起させるような、人生の相は多様であり、『ローラ』が描くところもこの人生の多様・多角性を3点から描くという以外に同じとする点は別に見当たらない。にもかかわらず、全てが「偶然」のテーマと感じるという理解・解釈の一元化、悪くいえば「思い込み」というものは人によっては避けられないものなのかもしれないと感じレヴューなり評価・批判というものが厄介だなとも感じた。氏自身のインタヴューでも、一番大切なものと一番怖いものを、観客であり、その観客の無理解だと言っているのは印象的だ。
『ヘブン』を撮影したティクヴァ氏もこの遺稿の映画化に際して、他人の残した意志をそのまま作品化することはしたくなかったと言っている。独自の映像表現で独自の世界を目指したと強い意志を表明している。原作を読むと、確かに、それを可能にしたのか否か、そのティクヴァ氏が表明したことの真価を納得できる作品だと感じる。

【付記】『デカローグ 』(全十戒)
第1話 「運命に関する物語」/第2話 「選択に関する物語」/第3話 「クリスマスイヴに関する物語」/第4話 「父と娘に関する物語」/第5話 「殺人に関する物語」/第6話 「愛に関する物語」/第7話 「告白に関する物語」/第8話 「過去に関する物語」/第9話 「孤独に関する物語」/第10話 「希望に関する物語」表題の「第5話」と「第6話」が劇場映画用に再編集された。
軽々しく命が失われる世界観の中で命の重さを思い知らされる映画
非現実的に思えない青年の心情の移ろいから目を背けたくなる
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