殺人に関する短いフィルムの作品情報・感想・評価

殺人に関する短いフィルム1987年製作の映画)

KROTKI FILM O ZABIJANIU

製作国:

上映時間:85分

ジャンル:

3.7

「殺人に関する短いフィルム」に投稿された感想・評価

デカローグ第5話の劇場版。
衝動殺人により出会うはずのなかった3人の男が絡み合う衝撃。殺人を犯した人間は法的に殺される、それもまた殺人だが、後者は裁かれることの無い殺人…何故なのかそれが正しいのか疑問を問われる。
車の中にぶら下げられた不気味な
天狗のような男の顔のキーホルダーがヌメヌメと揺れる。振り子のように。運命を楽しんでる。

過去は現在に大きな影響を及ぼしている。このことからは逃れられない。見た過去、聞いた過去、言った過去、すべては今に繋がる。残酷な過去は残酷な現在に繋がる。それでも振り子は揺れる。
LEONkei

LEONkeiの感想・評価

3.3
この映画を観て物語が進むにつれ、ニュースで知ったまったく別の事を頭が過ぎる。

そして、居たたまれない気持ちがフツフツと沸き出してきた。

人が人を殺すという事は映画の中では当たり前のように表現されているが、それは映画の中のフィクションだからこそ割り切って楽しめるものである。

現実社会では日々世界中で殺人事件は行われてるだろうが、その中でも理不尽でやるせない殺人がある。



この映画もそんな殺人をテーマに〝クシシュトフ・キェシロフスキ〟の独自の映像と解釈によって、殺人者の末路が描かれる。

弁護士を志すピョートル、街を彷徨う青年ヤチェック、そして偏屈なタクシー運転手。

こうなっていたら、こうなってはいなかった…歯車が狂いだし3人が1つに重なったとき悲劇は起こる。

この映画の〝キェシロフスキ〟の映像も独特で、陰影表現が極端なほどに存分堪能できる。

影によって見え隠れする表情は、たとえ観ている側に顔が見えなくても意思が伝わる。(或は考えさせられる)

目を覆いたくなるような残酷なシーンもあるが、どこか張りつめた空気が常に漂う映画でもある。

人間が完璧でない事は分かっている、そう分かっていても何故そこまで残酷になれるのだろうか..★,
あるひとの名前を声に出してみる。

好きな人、憧れの人、怖い人、憎い人、不思議な人、少しだけ触れ合った人、遠い人、近い人、親、兄弟姉妹、親戚、祖父母、先輩、後輩、上司、部下、もう関わり合いたくない人、もっと話しておけば良かった人、罪悪感を感じる人、守ってあげたい人、恨みを抱く人。

そして、自分の小宇宙のなかでは群衆として存在した人。その人たちの名前を、私は知らない。私ではない誰かによって声に出されるべきその名前を、私は知ることができない。

キェシロフスキの作品を観ると、いつもそんな思いが、夜の気配をエーテルのように満たす。

殺人に関する短いフィルム。

主題が殺人とその罰だけに、一見すると社会派ドラマのようにも見えるけれど、キェシロフスキが描き出すものに、社会批判や政治的メッセージは一切ない。

彼が描くものは一貫して、誰しもが背負っている原罪性と、抗(あらが)いがたく伸びる、その宿命的な影だ。

テレビドラマとして撮られた『デカローグ』(モーセの十戒にモチーフを求めた全10話の作品)から、『第5話 ある殺人に関する物語』をロングバージョンにしたもの。

ある青年が殺人に至るまでのシーンと、その罰を受ける(死刑)までのシーンとが、ほぼ等価に描きだされる。

だからといって、あの愛すべき弁護士の死刑反対の姿勢を、そのまま作品のメッセージと受け取ってはいけない。キェシロフスキは、そんな”なまじっか”なことをする作家ではない。

キェシロフスキが描いたものを、誤解なく受け取るためには『デカローグ』を観ないと難しいかもしれない。

ツタヤさん、全国津々浦々の店舗に、ぜひ『デカローグ』を配備してください。VHS時代はあったのにな。
衝動的にタクシー運転手を殺してしまう青年と弁護士を描いたドラマ。
殺人の場面では、靴下が脱げたり、首を絞める表情、力加減までクローズアップを多用した緊迫感溢れる撮影が印象的。リアリティがあふれていて観たくないような気分にもなる。後半は死刑が描かれるが、その残忍さもリアルで、目が当てられない。
kos

kosの感想・評価

-
どうしたってそこまでするんだと思う時があるけど、その多くが当事者にしか分からない。弁護士の彼が自分に何か出来たかもしれなかったと裁判官に後悔を漏らす場面がそれなんだけど。
キシェロフスキが、偶然がもたらす別の未来の可能性を示そうとしているのは分かるし、それが破滅に繋がる場合もあるということも。たしかに楽観的にそれを想い描くことは否定しないし寧ろ肯定したい。でも今を否定し悲観的に捉えることでより良い未来を求めるのは違うと思うんだよなぁ。
カラン

カランの感想・評価

5.0
キェシロフスキー私的ルネサンス③、『殺人に関する短いフィルム』のレビュー。


黄色とは狂気の色なのである、と昔、20年ほど前の話だが、授業で教わった記憶がある。ゴッホのキャンバスには奥深いところから光が滲みだしている。画布の上に死んで動かなくなったかのように固着する油絵具によって命の躍動を描き出すために、フィンセント・ファン・ゴッホは狂気のイエローをタブローに仕込んだ。そんな内容の静かな、しかし少し変わった講義であったと思う。私にとって、それ以来、黄色は狂気を秘めることになった。



この映画は、汚らしい水たまりに横たわるネズミの死骸から始まる。中央が黄ばんでいて周辺が暗い青緑に沈んでいる画面。続いて、首を吊るされた猫の死体と、駆け出して一斉に去っていく子供たち。背景には薄暗い建物が林立する。この冒頭は、映画の予告になっている。

均質で、あれかこれか、区別がつきにくい旧ソビエト風の、社会主義諸国にたぶん林立していたであろうような陰鬱なタワーの正面ドアのガラスに、向かいに立つ同じように陰鬱なタワーが映っている。キェシロフスキーは、鏡を投入したのだ。この鏡は、オリジナルとイマージュの区別を曖昧にし、方位を見失わせ、映画の世界と鑑賞者の現実を溶かし込み、キェシロフスキーの善と悪の区別のつかない世界に、カフカのように猥雑な法の世界に、引き込む悪いドアである。それだけではない。この鏡としてのドアは、冒頭のシークエンスを折り返す蝶番であり、ネズミとネコと子供たちの関係性を反復する装置になっている。

ネコが嫌いだというネズミ男は、必ずや、ネコに殺されることになる。そしてネズミ男を殺すこのネコ男は、必ず、無邪気な子供たちに吊るし首にされることになる。そして子供たちは・・・、ネコ男の絞首刑を愉しみ(「これくらいですか?もっとですか?もっとですか?もっとですか?」)、またどこかに散っていくのだ。残された私たち、観客はどうすればいいのか?私たちはカインの話しをする弁護士になるしかないだろう。私たちをこのカインの弁護士と同一化させるために、キェシロフスキーは完璧なストーリーテリングを与え、演出の妙は冴え渡る。ネズミ男をネコ男が殺害するシークエンスももちろん狂っているが、絞首刑のくだりが一番奇怪なのだ。つまり子供たちがネコを絞首刑にすべく群がるところだ。

第1のアスペクト
ネズミ男は他人に冷淡だし(まだ他人が落とした使える雑巾をわざわざ拾って廃棄しようとする)、若い子に下品な目を向けるし、乗車拒否をするようなタクシー運転手なので、殺されて当然である、と観客には思える。『罪と罰』でラスコーリニコフに脳天を割られることになる強欲な高利貸しの老婆のようなものだ。だから、これだけでは『罪と罰』の読者は驚かない。ここはキェシロフスキーが、私たち観客の心を操作する第一の局面に過ぎない。この第一の局面で、ネズミ男は死んで当然であるから、ネコ男による殺人の実行もやむを得ないと、私たちは感じることになる。

第2のアスペクト
次に、ネコ男が、鳩を脅かすのと同じ意味で、ほとんど無益にも思える殺人を犯すとき、悪夢的な執拗さが出現することになる。ネズミ男がなかなか死に切らないので、ロープで引っ張り、締め上げて、鉄棒で何回も叩いて、さらに恐怖と快感が入り混じった奇声が漏れてしまうくらいに、石を何度も叩きつけて、布の下から血が滲みでるまで顔面を割らねばならない。何度も殺すのだ、1人の男を。デビット・リンチの『マルホランドドライブ』で殺し屋が謎のリストを持った男を殺す際、足の裏に付いた粘着物のように、執拗に殺人が連鎖して、ある男を殺そうとして、別の女まで殺すことになり、その女を殺そうとして、また別の男を殺す、といった調子の悪無限的な終わりのなさが描写されていた。こういう悪夢の中のしつこさ、つまりゾンビのように死んでくれない執拗さに、いよいよネコ男はサディスティックになっていき、無限に殺人を犯すことになるのは、キェシロフスキーによる私たちの心の操作の第二の局面である。私たちはこの第ニの局面で、執拗に残酷な行為を繰り返すネコ男に対して処罰を下すのは当然だろう、と考えることになる。そうだ、悪いネコは絞首刑にすべきだ。

第3のアスペクト
ここから、キェシロフスキーはもう一度観客の操作を試みる。ネコ男に悔悛させるのである。ネコ男の告白によれば、裁判の後、留置所に護送される際に、カインの弁護士に自分の名前を呼ばれて、はじめて我にかえったらしい。判決が出た後で、今さらのようにネコ男に罪の自覚の機会が与えられることになるのだが、思えば、ここで告白される《本当の自分》とは、鏡としてのドアがそうであったように、後生大事に持ち歩いてしわが入ってしまった写真を引き伸ばすというエピソードと、犯行の1時間前に喫茶店でガラス窓の向こう側の女の子にクリームを飛ばすというエピソードが、前もって予言していたものだ。こうしたことを、説明ではなく、イメージとエピソードを重ね合わせながら、パランプセストのように、映像を繊細な手つきで紐閉じ、どうあっても収拾のつかない狂った世界を、抵抗のないなめらかな映画にまで洗練させていくキェシロフスキーの手際は、ほとんど天才のそれである。

妹の写真に刻まれたしわが、ネコ男だ。その写真を引き伸ばして、母親に送りたい、とネコ男。自分は死んだ妹のイメージを傷つけ、視界を遮り、よく見えなくさせる、しわ、なのだ、それが自分の正体なのだ、とはっきり母親に伝えたいとネコ男は言っている。喫茶店の窓ガラスの向こう側から女の子が天使のように笑いかけている。その窓にネコ男はスプーンでクリームを飛ばす。ドロッとガラスの表面を垂れるクリームは糞便か精液のように、天使を汚しており、その汚れた天使にネコ男は優しく微笑む。なんという微笑であることか。私は『ライ麦畑でつかまえて』の妹のフィービーを見るホールデンの眼差しを思い出した。しかしネコ男は気づいていない、自分が妹を汚す糞便であり精液であることを。ネコ男の自我は分裂してしまっており、自分をまだ見失ったままである。本当の自分は、聖痕のように、写真に刻みこまれた、しわ、なのであり、窓に垂れる汚いクリームなのだ、ということをネコ男は気付いていなかった。妹を殺したのは、一緒に深酒したにも関わらずトラックを運転した友人ではない、自分なのだ、自分こそが妹の殺人犯なのだ、とネコ男が自分の内心の真理に気付くことになるのは、既に判決が出た後なのであった。人は自分の人生の真理に対して、常に遅ればせなのである。そして、こういう本当の自分の抑圧の末路を、つまり真理に対する無知と遅延の効果を、私たちはよく知っている。

ネコ男がネズミ男を殺すのは、無論、弟アベルを殺害した兄カインのように、兄妹殺しの罰をうけるためだ。自分は視界を妨げる写真の「しわ」だ、自分は天使の微笑みを汚す糞便か精液だ、自分は妹殺しの兄だ、自分は処罰されなければならない有罪者だ。そうだ、自分こそネズミ男なのだ。自分は石で頭を割って殺されるべき人間なのだ。まことに、サディズムとは自分の外部に向けられた死の欲動である。しかしまたその欲望の強度は自罰欲求としてのマゾヒズムが裏張りしているのだ。自分は有罪で処罰が必要なのだと感じるほどに、つまりマゾヒズムが強くなるほどに、外部に放出される圧も高くなる、つまりサディズムの強迫の度合いも強くなるのだ。

今や事後的に、第2の局面でネズミ男の殺害に際して悪魔的な執拗さが出現した本当の意味を、私たちは理解する。あの悪夢のような執拗さ、何度も何度もネズミ男を締めつけ殴ったのは、自分自身の罪の重さの故であったのだ。ネコ男が有罪で、その罪が深ければ深いほど、処罰は重くなり、今やネコの罪はネズミに投射されているのだから、ネコはネズミを残忍に処罰しなければならない。そしてネズミに対するネコの残忍さが高まるほどに、ネコの享楽は高まり、かつ、贖罪される。つまり、ネコが赦されるのは、ネズミを残忍に殺す時ということだ。なんというパラドクスだ! サディスティックな殺人を犯す時こそが、自らの贖罪の最大のチャンスになるとは!しかしまた、このチャンスは命を賭けたチャンスでもある。そのネコの首を絞め頭を割る行為こそが、ネズミの首を死刑執行人としての愉しい子供たちに引き渡すことにもなるのだから。

さて、こうしたサド=マゾとしてのネズミ=ネコの殺害を介して、自分のもとに戻ってきたネコ男を、もはや殺す必要はあるまい。2度殺す必要がある人間とは誰か?ネズミ男と共に彼はもう死んだのだ。そしてカインの弁護士も言うとおり、極計を課すことが犯罪に対して抑止効果を発揮するわけでもないだろう。これがキェシロフスキーによる心の操作の第三の局面である。この操作によって私たちは感じるのだ、ネコ男を2度殺す必要はない。もう少し、可哀そうなネコ男の話を聞いてやるべきだ、と。ネコ男は自分が何をしているのか知らなかっただけだ。「父よ、あの人たちをお赦し下さい。彼らは自分のしていることを知らないのです。」Forgive them, Father, for they know not what they do. しかし、ここ、この映画の世界は、鏡の世界である。悪いネコは子供たちによって必ず首を吊るされる。


『殺人に関する短いフィルム』のこの後の顛末について、これ以上説明する必要はなかろう。殺す必要のない男を殺すのは、私たち自身の欲望である。寄ってたかってネコを吊るし上げる「子供たち」が一番奇怪で、一番淫猥で、一番歪んでいる。そのことを完璧に暴露されて、カインの弁護士のように茫然と取り残されることになるのは、私たち自身なのだ。こうした帰結は、おそらくたいていの観客にとっては不愉快で理解に苦しむものであろうが、それをどう受け止めるのかはキェシロフスキー監督の問題ではない。後は勝手にどうぞ、とでも言わんばかりの監督の去り際は、毅然としており、いかにも芸術家然とした背中に拍手を送りたい。



冒頭でゴッホの生が躍動する狂気のイエローの話をしたが、ゴッホとは違う仕方で、黄色を印象的に使っていた画家がいた。ジョルジュ・デ・キリコだ。晩年には、アンドレ・ブルトンに「あいつはもうだめだ、自分の絵を模写している」と切り捨てられることになった、というエピソードを聞いたことがあるが、若い頃の作品は印象的である。有名な『通りの神秘と憂愁』や『ある一日の謎』の、感傷的でありながら全てを陽のもとに曝す黄色の通り。薄暗い人気のない建造物。遠近法の消失点がずれている、子供が造形したような稚拙で歪んだ世界観。煙が静止しており動いているのか止まっているのか分からない汽車。世界に突き刺さっているとでもいった調子のファリックな煙突から真横に流れ出る黒い煙。キェシロフスキーは若きデ・キリコの黄色のタブローを舞台にして、カフカとドストエフスキーの人物たちを配置しながら、この映画を作ったのであろうか。


タクシー運転手の、「こいつなら殺されて当然じゃね」と思わせるような軽薄なクズさ加減が、観客の倫理(道徳じゃないよ)を問うているような感じがした。
もはやだれがマトモなんかわからん。
ちょっと『異邦人』思い出した。
hk

hkの感想・評価

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好きな絵だった。
後から足された妹と弁護士のエピソードがなくても好きだった。

殺人vs殺人
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