ベイビー

瞳をとじてのベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

瞳をとじて(2023年製作の映画)
4.7

このレビューはネタバレを含みます

感想をそのまま書き留めたくて、だらだらと長い文章になってしまいました。

「ミツバチのささやき」を含む、ネタバレや勝手な妄想解釈が書かれていますので、まだ作品をご覧になられていない方はご注意下さい。



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寡作だと言われる監督がいる


1973年に処女作である「ミツバチのささやき」が発表され、それから約50年のうちに作られた作品はたったの4作。前作から31年の歳月を経て、2023年に本作が発表されました。

まるでこの半世紀にも及ぶ時間経過が、本作を象る伏線のように感じられ、その時間の流れに触れることにより、“記憶”という作品のテーマがより立体的となって、寡黙な物語の余白を雄弁に埋め尽くしてくれます。

前半は、22年前に失踪したフリオの人物像を記憶と共に辿り、後半は失われた彼の記憶を呼び戻す構成。冒頭の劇中映画「別れのまなざし」で、フリオが演じた主人公のフランクは、フェラン(ミスター・レヴィ)から中国に居る娘のチャオ・シューを探してほしいと探偵役として依頼されましたが、その劇中映画の流れと重なるようにして、ミゲルはテレビ出演をきっかけに、長年の親友だったフリオの捜索を始めます。

その捜索の中で、ミゲルは過去にフリオと親交のあった人たちや、娘のアナと話をして行くのですが、どの人の記憶にも“フリオはいい役者だったが、酒好きであり、女好きだった”という印象が残るくらいで、彼が何故失踪したのかという真意までには至りません。

記憶を辿り、フリオの過去を追いかけはしたものの、誰も彼本来の姿に辿り着けないという現実が、フリオの孤独を浮き上がらせていきます。そんな現状ですから、彼が姿を消した理由なんて誰も窺い知ることはなく、あやふやな記憶を頼り憶測だけで彼を語ることは、フリオという人物像を噂レベルで肉付けしているに過ぎないのです。

ミゲルは高齢者施設で、フリオを診た医師に「名前に何の意味がある」と問い掛けます。それはまるで、名前ですら人を区別する記号に過ぎないのだと言っているようです。人は名前で存在しているのではなく、己が持つアイデンティティによって人は創られているのだと、ミゲルは誰となく伝えたかったのかも知れません。

その内容を踏まえて解釈すると、一つの推論が立ち上がります。フリオは「別れのまなざし」の撮影の時には、既に酒に溺れる生活を続けており、与えられたセリフも全然頭に入っていなかったと言われています。人気俳優であったが故に、周りはフリオを腫れ物に触るような態度で接し、少しずつ彼を孤独に追いやっていたのではないでしょうか。

そうやってフリオは意図せず「悲しみの王」の立ち位置となり、他人には知り得ない寂しさを募らせたのでしょう。“酒好き、女好き”というレッテルを貼られながらも、本人の本当の姿の中には、ロラを愛する純真があり、反政府活動をしていた頃のような自分なりのアイデンティティがあります。そんな自分の真理と乖離して行く世間の声に、深い憤りを感じたのだと想像ができます。海兵時代に培ったロープ結びは、そんな変わらない彼の自我を象徴しているよう感じられるのです。

物語の冒頭は、ミゲルが失踪したフリオの謎を探るサスペンス調な流れとなっていたものの、結局物語の中で彼の失踪の真実に触れられることはありませんでした。フリオは自分の意思をもって姿を消したのか、それともなんらかの事故があり、存在を知られず現在に至ったのか、その答えはもちろん、最後にフリオが記憶を取り戻したかどうかも、曖昧なまま物語は幕を閉じていきます。

ある人にとっては、この終わり方が消化不良になったかも知れません。しかし、この曖昧さこそ監督が伝えたかったものだと解釈すれば、この作品の余韻も少しは長く続くのではないでしょうか。

時間と共に霞んで行く曖昧な記憶。そして時間では変えられないアイデンティティ。フリオが失踪したという22年の長い年月を軸におき、忘却と不変の対比を表した本作は、寡作という要素と擦り合わせることにより、より一層“時間”という概念を深く感じさせてくれます。

悲しみの王(トリスト・ル・ロワ)という名の邸宅の庭に、ポツンと置かれている二つ顔の石像。その印象的なモニュメントはギリシャ神話の神であるヤヌスの姿です。ヤヌスは神話の中で歴史(時間)の神とされていて、一つの顔は過去を向き、もう一つの顔は未来に向いているとされています。

本作で言えば、過去は“記憶”であり、未来は“希望”となるのでしょう。「別れのまなざし」の中では、フェランがフランクに娘との記憶を語り、中国から娘を連れ戻してほしいと、彼に希望を託します。そして本編でも、ミゲルは失踪したフリオはまだ生きているという希望を持ち、僅かな記憶に頼りながら彼の捜索を続けていました。

「別れのまなざし」のラストで、フランクはフェランの下にチャオ・シューを連れて行きます。冒頭でフェランは、我が娘の無垢なまなざしで、最後にもう一度見つめられたいと心より願っていました。そして現実にチャオ・シューの実体は、フェランの目の前に存在します。

フェランは記憶の中にある娘の姿に近づけるため、ハンカチを花瓶の水に浸し、その濡れたハンカチで彼女の化粧を強引に落とし始めます。そしてチャオ・シューの素顔を見たフェランは、今までの自分の気持ちを届けるように、彼女に向けて歌い始めます。

「どうかその海に身を投げないでおくれ、どうかその冷たい海に身を攫われないでおくれ」と。

するとチャオ・シューが応えます。

「私もあなたの傍に連れて行って」と…

これは最愛の人との別れを綴った、悲しみの歌であると同時に、“記憶”のことを与みした歌のように感じられます。時間の流れは海のような深い過去を作り、その深淵なる暗闇に記憶は冷たく沈んで行きます。

フェランは最愛の娘の記憶が、自分の中で消えてしまうのを恐れたのでしょう。そして父として、自分という存在をいつまでも娘の記憶の中に残して欲しかったのでしょう。チャオ・シューはそれを叶えるように、涙を流しながら、別れのまなざしでフェランの最後を見送ります…

そのまなざしは記憶の扉

現在が過去へと移行するように、その瞳に映るもの全ては、記憶へと換えられて行きます。人はヤヌスの像のように、未来の方を向きながら現実を見つめ、過ぎ去る時間の中に記憶を収めて行くものです。そして記憶は人の中で生き続け、人と共存しながら未来へと運ばれて行きます。

ミゲルはフィルムに残された記録を使って、フリオの記憶を呼び覚ます荒療治を試みました。「別れのまなざし」という作品が、フリオ失踪のきっかけだったとすれば、この作品こそが、彼の記憶を取り戻す起爆剤になり得ると考えたのでしょう。

過去は未来への推進力です。

ミゲルはフリオの記憶を呼び覚ますと同時に、彼に未来を作ってやりたくて、「別れのまなざし」を観せたのではないでしょうか。それを示すかのように、試写が終わると同時に、ミゲルとアナは希望と期待のまなざしでフリオを見つめます。するとフリオは二人のまなざしと反するように、一人静かに「瞳をとじて」いきます…

まるで過去を振り返るように、瞳を閉じたフリオの脳裏には、いったいこの時なにが見え、なにを感じていたのでしょうか。結局フリオが失踪した理由と同様、彼が記憶を呼び覚ましたかの真意は明かされていません。

そんな曖昧な余韻を残しながら、物語は静かに幕を下ろします…


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時間が作る重厚感。本当に素晴らしい作品でした。僕は最後の余韻を引きずるように、未だこの作品のことが頭から離れません。本作を構成するにあたり、自分の作品どころか、寡作と言われていることすら演出の一部に取り入れているような気がして、観ていて本当に凄いという言葉しか出てきませんでした。

「ミツバチのささやき」や「エル・スール」もそうでしたが、本作も物語の中に“スペイン内戦”や“フランコ政権”というスペインの歴史が触れられていました。この不可逆的な歴史は記憶となり、エリセ監督の郷土への想いとして、作品の中に多く映し出されています。

「ミツバチのささやき」では、スペイン内戦で斃れた者たちを精霊として描き、「エル・スール」ではスペイン内戦により人生を狂わされた父アグスティンの過去を、娘のエストレリャが掘り起こす物語としています。

本作で言えば「エル・スール」のように、ミゲルがフリオの記憶を掘り起こす物語となっていました。その記憶の中にはもちろんフランコ政権のことも触れられおり、そして主人公らがその反体制側にいたことも描かれています。

まるでセルフカヴァーをするように、自分が過去に手掛けた作品の内容を自分の新作に重ねてしまうのですから、エリセ監督作品のファンとしては、それだけでも充分に楽しめる作品なのではないでしょうか。

それで言うところの最たる喜びは、アナ・トレントさんの本作出演となるのかも知れません。「ミツバチのささやき」のあの可愛らしいアナを知る人は、50年ぶりにエリセ監督作品に出演するアナ・トレントさんの姿を楽しみにされていたことと思います。

このキャスティングによる時間効果のおかげで、本作のテーマである“記憶”の存在がより浮かび上がっているように感じられます。そしてその絶大な効果は、ある場面で最大限発揮されます。それは娘のアナが失踪していたフリオと再会するシーン…

私はアナよ
私はアナよ…

この囁き、ズルくないですか。ズルすぎじゃないですか? 何なのですかこの演出は。こんな見事なセルフカヴァー、あっていいのでしょうか?

このセルフが50年前の「ミツバチのささやき」に準えているのだとすれば、一度目は目の前に居る父らしき人物に語り掛け、二度目は父の魂に呼び掛けていたように感じられます。

50年前の少女のアナは、夜霧が立ち込めるベランダに出て、精霊たちに向けて「私はアナよ」と囁いていました。そのシーンを思い返すと、本作のアナは、一度目は記憶のないフリオの肉体に呼び掛け、二度目は以前のアナと重ねるように、精霊ならぬ父の魂に囁き掛けているよう感じられるのです。

この作品でいう“魂”とは“自我”です。たとえ記憶を失くそうとも、彼の本質やアイデンティティは変わっていないかも知れない。たとえ顔が分からなくとも、声なら私だと気づいてくれるのかも知れない。父とは直接会うより、電話で話していた方が多かったと語っていたアナですので、アナはその時の父に語り掛けるように、彼の魂に向けて優しく囁いたのではないでしょうか。

このようにこの場面を解釈すると、本当に泣けてしまいます。本当にズルいです。50年前のセルフを本人に言わせるなんて…

こんな感動ができるのも、過去の作品があり、長い時間の流れがあってこそ。いとも簡単にこうして時間を繋げてしまい、どんな時間の流れも映し出さしてしまうのですから、映画の力って本当に凄いですよね。

今という時代にそれを体現させてくれるビクトル・エリセ監督。彼こそがヤヌス神だと思わせるくらい、本当に時間を巧みに使った演出は見事としか言い表わせません。

本当に大好きな監督です。
この作品が最後にならないでほしいです。
ベイビー

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