yuien

哀れなるものたちのyuienのネタバレレビュー・内容・結末

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
-

このレビューはネタバレを含みます

一見フェミニズムを語っているが、実体はMale Gazeに満ち溢れていて、女性を精神的に姦淫した映画だった。

そもそもランティモスは好きではなく、この映画もスルーするつもりだったけど、Vasilis Marmatakisによるポスターのグラフィックデザインがあまりにも良かったので、ほいほいと観に行った。実際、美術面は素晴らしかった。19世紀を舞台に据えながら、ショートパンツ一枚で、髪も結わないまま外を闊歩するヒロインや、レトロフューチャーのような都市に、空を駆ける車など、コラージュ的な美的感覚は、ハイエンドブランドのPVを見ているようだった。だが、気合いを入れすぎて、演出に力みがかなり強く出てしまっていた。特に魚眼レンズや渦巻き状な背景の多用が若干クドい。

そして個人的に一番引っかかった要素でもあり、おそらく本作が賛否両論の所以でもある濡れ場の多さ。大量の濡れ場を盛り込むのがタブーだと言いたい訳ではない。しかし、本作の場合は結局のところ、そういう場面を通して女性を性的対象化しているように思えたことに問題を感じる。例えば、女性の性や性欲を可視化する為にそういう場面を大量に盛り込んでいるならば、セックスにおいて女性が主導権を握ったり、優位に立ったりする描写ももっとたくさん取り入れるべきだったのでは?でもこの映画におけるセックスは、基本的に男女の交わりを映したもの以上の機能を持たないので、ただ場面数を増やして、作品の大胆さを誇示し、センセーションを狙っているだけにしか見えない。本筋と特に関係がなく、どう考えても不要に思える女性同士の口交シーンを観て余計にその思いを強くするばかり。

社会にある既存の価値観や倫理から逸脱した存在が、自らの好奇心を貪欲に満たそうとする設定自体は、意欲的で素晴らしい。しかし、その好奇心はもっぱら性に向かっていくのはどうなのか。知的好奇心の芽生えへの言及もあるが、薄っぺらくて表面的な談話の数々は、あまりにもとってつけたようだった。ベラは社会を変えたいと言うけど、プラクティカルなことは何もしていない。アレクサンドリアで現実を目の当たりにし、貧しい人にお金を渡すが、それですら他人のお金で、自分が持っていた緊急用のお金は用心深く取っておいたわけだ。
ひとりの人間の描写として、フェアに見て、性的好奇心と知的好奇心の描写に割く割合が明らかにアンバランスすぎるのではないか。作り手がどちらの関心に重きを置いているのかがよく判る。これが女性を性的対象として捉えていると言わなくて何と言う。

思うに、ベラを純粋に人造人間か新生命体にすれば、自分はきっともう少しこの作品を受け入れられたのだろう。原作未読だからわからないけれど、少なくとも映画では、大人の女性の身体に赤児の脳を移植する、という設定は、アダルトコンテンツのシチュエーションの一種に成り下がっていた。
いくら個人差があるにせよ、子供の成長は段階を踏むものであって、まだよちよち歩きフェーズの幼児があらゆる段階をすっ飛ばして、唐突に性的関心を芽生えるフェーズに突入するというのはどう考えてもおかしい。そのくせ、月経の描写は全くなく、初経を体験する恐ろしさについての言及もなく、避妊しているかどうかの描写も一切ない。そもそも妊娠の危険性についての示唆すらないというのが致命的だ。あまりにも都合が良すぎるのではないんだろうか。女性の身体性への言及が完全に欠落している。そんな無責任な態度で、女性の性を語っていいのか。

例えば、原作にはもっとベラ自身の思考や思想が書かれているようだけど、そういう部分はそぎ落とされ、意図的に性に主軸を置いたこと。例えば、ベラは、食べ物が不味いと躊躇なく吐き出すけど、お酒に対しては興味津々で、酩酊になるまで呑む場面をわざわざ描かれていること。
ベラという女性の存在や性質、彼女の興味関心の矛先は全て作り手の男性たち(監督や脚本家)によって恣意的に選択されているという気がしてならない。それは、所謂ステレオタイプとはかけ離れているけれど、結局は、男性による女性幻想でしかない。

何故、自分がランティモスに対して苦手意識を抱いていたのか、今回ではっきりと理解できた。それはセンセーションを意識しすぎるが故に、テーマに対する誠実さに欠けると感じるからだ。

フェミニズムがある種のファッションになってしまったようで、非常に残念に思う。
yuien

yuien