タケオ

CURE キュアのタケオのレビュー・感想・評価

CURE キュア(1997年製作の映画)
4.2
 「あんた誰だ?」記憶喪失の青年間宮邦彦(萩原聖人)は、ぶっきらぼうに尋ね続ける。この時に間宮が尋ねているのは、名前や肩書きといった表面的なものではない。これは、「お前は一体'何者'なのか?」という実存的な問いである。主人公高部(役所広司)の友人で心理学者の佐久間(うじきつよし)は言う、彼は「伝道師」なのかもしれないと。間宮は、一体'何'を伝道しているのだろうか?  
 題名通り、それは「CURE(癒し)」である。間宮は迷える人間たちに「癒し」を与えようとしているのだ。では、人間にとっての真の癒しとは一体何なのだろうか?
 本作『CURE』(97年)はその答えを出しているようで、実は全く出していない。そもそも、人間にとって何が真の癒しかなど誰にも分かるはずがない。にも関わらず、本作がまるで「真の癒し」について描いた作品のように思えるのは何故だろう。
 それは人間が、おためぼかしでもなんでもいいから「癒し」を求めずにはいられない存在だからではないだろうか。
 酷薄極まりない現実をなんとか受け入れようとしながらも、「いつかは報われるのではないか?」という拙い希望が捨てられない。そんな人間の心の隙間に、間宮は巧みに潜り込む。「あんた誰だ?」繰り返される問いが徐々に形を変えながら、鑑賞者にも揺さぶりをかけてくる。
 『CURE』は写し鏡のような作品だ。鑑賞者の心理に合わせて、次々とその姿を変えていく。ままならない現実に疑問を抱く人間にとっての「癒し」なのかもしれないし、社会のシステムに染まりきった人間に対する「宣戦布告」なのかもしれない。『CURE』は、映画自体がある種の「通過儀礼(イニシエーション)」として機能する。観賞後に広がる世界の姿は、鑑賞前のそれとは全く違って見えるはずだ。いや、そもそも世界の真の姿から目を背けていたのは自分自身なのかもしれない。
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