じゅ

アンナ・カレニナのじゅのネタバレレビュー・内容・結末

アンナ・カレニナ(1948年製作の映画)
3.2

このレビューはネタバレを含みます

「俺にはまだ早かった」って思う映画は数あれど、「俺にはもう遅かった」って思うのはそうそうない。
DVDのパッケージに書いてた紹介文には「ヴィヴィアン・リーが女の性(さが)を華麗に演じてみせる」と。俺にもうちょい純粋な心が残ってたら、アンナ・カレニナがもしかしたら自分自身ですら正体を掴めていなかったような淋しさを埋めてくれる何かを追い求めた儚さとか、あまりの美貌のため美しさだけで愛されて何か大切なものを掴み損ねた美しさ故の試練とか、もっとちゃんと単純に楽しめたのかも。

俺にあんまし純粋な心が残ってなかったので、アンナが
兄嫁の妹の婚約者のヴロンスキーを愛人にして夫のカレーニンを傷つけといて離婚話になったときは息子のセリョージャの親権は欲しいって泣いてすがって、
愛人の件を皆に噂されてる心労で倒れた時にはもうヴロンスキーのこと好きじゃないって言ってみたかと思ったら元気になった途端にヴロンスキーと駆け落ちして、
かと思えば息子の顔を見に帰ってきて、
世間の目から隠れて生きるのは嫌だっつってオペラ鑑賞に行くって言い出して案の定陰口叩かれたらヴロンスキーのせいだと泣き喚いて、
そのヴロンスキーが仕事で家を開けたらもう自分に気はないと思い込んで自殺して
周りを引っ掻き回した末に被害妄想に取り憑かれて何が「女の性(さが)」だよって気持ちが強い。

アンナは何を求めていたんだろう。言ってみれば等価交換みたいなことなのかな。アンナは相手の人ただ1人だけを求めるから、その人がいれば文字通りもう何も望まないから、相手にも自分以外の一切を捨てて自分だけを求めてほしかったみたいなことだったんだろうか。
夫のカレーニンは仕事どっぷりだったからアンナの要求は満たされなかった。一方でヴロンスキーは違うように思えた。自分の言動一つひとつ忘れられないみたいなことを言って、軍の肩書すら捨ててアンナを求めた。でも時が経つにつれてヴロンスキーもやはりアンナだけが全てではなかったことを知る。駆け落ちした先に古巣の軍隊が立ち寄ると、話しに行ったきり長時間戻らなかった。さらに自分を残して仕事と言って彼の母の下へ行ってしまう。
たぶん、アンナ自身はヴロンスキーのために彼以外の全て(愛する息子さえも)を捨てたつもりだった。しかしヴロンスキーは違った。アンナ以外にも大切なもの/ことがあった。すなわち、アンナは全てを棄ててすら求めるものを得ることができなかった。

最期の場面、仕事に出たヴロンスキーを追ってアンナは汽車に乗る。途中駅で何かを直感して汽車を降りる。そこはヴロンスキーとの恋が始まった駅。
当時降り積もっていた雪の代わりに、強い雨が降りしきる。最早あの時とは何もかも変わってしまい、戻ることはできない。
制服姿の男を想い人と勘違いし接触するも、振り向いたその男は求めた人ではない。今やヴロンスキーのことすらある意味見失ってしまった。
アンナはもう平穏だった過去には戻れず、このまま進んでもヴロンスキーの下に辿り着くことはできない。アンナに残された手はこの場所で生を終えることだけだった。

序盤の人身事故シーンが何のためのシーンか分からんかったけど、このラストシーンのためだったんだな。
じゅ

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