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マイ・レフトフットのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

マイ・レフトフット(1989年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 初手のカットで映し出されるタイプライターの上を左足が横切る。タイプライターにあるべき手の存在を裏切られたあと、主人公はそんな我々の"普通"を求める目を凝視する。障害を抱える者なんて大抵は感動ポルノ的消費に陥るが、そうなることを予め拒絶する良い冒頭であった。

 「精神的にでなく、身体的にも愛されたい」。
調べたところ、原作からの大きな改変は、恋愛への比重が増えていることだそうだ。人生譚というよりも、主人公の恋愛成長物語になっている。なので、最終的に結婚がゴールなわけで、幸福の到達点として描かれている。最上の幸福をそれに設定してしまうのは浅はかだと思われる点であり賛否は分かれるだろう。ちなみに本当のクリスティはこの結婚を境に体調を崩して早くに亡くなる。真相が真相だけに余計にラストは熟考すべきな気がした。マイノリティへの希望の星として、ハッピーエンドであることの大きさもまぁあるだろうが。「ピロスマニ」のラストのように、孤独の内にいる姿を、それでも描き切るように、描写するだけでも相当な救いになるとは思う。アイルランドの当時まだ保守的な国民性故な気もする。

 恋愛に終始すれば、父はエディプスコンプレックス的に憎むべき存在にならなければならない。実際は全然酒で荒くれた人では無かったらしい。わかりやすい対立ではあれど、父と子の葛藤が乗り越えられる時、容易く自分は感動してしまう。父が膝の上で抱えて溺愛した下の子とは違う自分が、最後に父と接近するときは、父の死なのである。死した父と同じく横たわり助けようと息荒げる主人公は、近親相姦のようなエロスさえ見出された。

 ダニエル・デイ=ルイスの演技は、障害者の再現に止まらず人格をしっかり宿しているように思えた。もう記憶にあまり無いので比較が適当かはわからないが、「レナードの朝」のデ・ニーロはレナード自身というより、デ・ニーロの演技の振り幅、技術力という印象が先行していたように思う。

 福祉のあり方としては、日本のそれとは違い「揺り籠から墓場まで」な手厚さがある。学校も健常者と同じで、友人らも障害があるからという遠慮をそこまで感じない。あまりにも日常に溶け込むクリスティの姿は胸温まる。もちろん差別や偏見もある。日本はなぜ健常者と障害者との線引きがはっきり区切られているのだろうか。差別偏見を無くすために当事者たちを無くす今の日本の潔癖症は民族浄化と何が違うのか。

 監督のジム・シェリダンは、物語を第三者が読むという構造を好んでいるように思える(「ローズの秘密の頁」にも見受けられた)。読まれた物語であり、第三者の想像したものであるとするこで、描かれる映像があくまでフィクションであると言うかのようだ。しかし最近思うが、どんなにフィクションと言っても信じきってしまう人たちもいる。たかが映画であるという軽さが忘却されているように思える。
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