晴れない空の降らない雨

戦艦ポチョムキンの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

戦艦ポチョムキン(1925年製作の映画)
5.0
 この映画の魅力は「オデッサの階段」に尽きるものではない。ヒッチコック的ですらあるサスペンスの盛り上げ方がうまくて、展開が分かっていても見守ってしまう。サイレントゆえの大仰な芝居の臭みはあるが、俳優らの怒りの表情にも、群集としての運動にも圧倒される凄みがある。
 さらには、夜明けのオデッサ港の叙情的なシークエンスに見とれてもよいのではないか。朝日を受けて白の輝きが揺れる海、霧のなかにうっすら浮かび上がる戦艦のシルエットはさながらモノクロの印象派である。
 
 
■群集
 とはいえやはり本作は、何よりもまず、革命の原イメージといえるものを提示している。革命の主体は「群集」である(アメリカ映画が群集を肯定的に描き出すことが稀であるのは示唆的だ)。それは映像によって初めて形態を与えられた。というのも、群集はその躍動とともに捉えられなければならず、写真では視覚化として不十分だったのである。
 それにしても群集とは何だろうか。大量のエキストラを集めて1フレームに収めれば、群集が立ち現れるわけではない。革命的/主体的群集であれば尚更だろう。群集とは個人の集合体だから、それは単一でなければならない。とはいうものの、群集を肯定的に描き出したいのであれば、個人を蔑ろにしてもならない。
 つまり、群集を映像化するには、弁証法が必要なのだ。ロングショットが全としての群集を映すとき、個は否定される。他方でクロースアップは群集を否定して、その構成員がなお一個の人間として存在することを示す。モンタージュによる、この否定の往還をつうじて革命的群集が正しく表象される。「オデッサの階段」でも、映画は群集を単体として描きながら、同時に1人1人に個性を与えていることが窺えるだろつ。
 
 
■情動
 また、ここで重要なのは「情動」の映像化である。共通の情動が個人を束ね、群集へと進化させるからだ。情動、ここでは怒りが発生する過程を映画は見せようと努力している。
 
 第1部の船員たちが眠るハンモックは、観る者にやや異様な感覚をもたらすことだろう。ポイントはあの揺れだろう。後に出てくる、吊された生肉や、ボルシチが並べられた吊りテーブルも、同じように揺れている。
 この揺れは、まだ名状しがたい曖昧な感覚の映像的表現だろう(そして、やはり写真では表現できない)。そこから、一連の出来事によって、粘土がこねられて像になるように、この感覚は「怒り」という明確なかたちを得ていく。つまり、あのハンモックの「揺れ」は、そこで寝ている人々が反逆を起こすために動員する「怒り」という情動の、まだ未定型な芽生えの状態を映像化したものと言えるだろう。
 
 次に、反乱の主導者の亡骸を取り囲む人々の感情が、悲嘆から怒りへと移り変わる過程もまた描かれている。その表現は(顔よりも)拳に託されている。つまり、映画は演説家、聴衆、葬列などの短いショットをつなげていく。その中に、握り拳のクロースアップが幾つかある。服をつかんでいる拳もある。そのショットの出番になるたびに、握力はしだいに強まり、やがて振り上げられるのである。つまり、ボルテージの上昇という量的変化と、ある値を超えた瞬間の質的変化(=革命的群集への変貌)に、映像的表現を与えようとしているのである。
 
 
■英雄
 そして、観衆が暗い部屋に押し込まれ、互いに言葉を交わすこともなく、同じスクリーンを見つめるとき、同じ変容が彼らにも生じることが期待されていたはずだ。そのような「教育的」装置として映画があったのは確かだろう。他方で、群集を指導するような英雄的個人の役割が必要最小限に抑えられている点は、注目してよいかもしれない。名前が呼ばれるのは、前半で退場するあの水兵だけだ。本作は単独の主人公をもたないどころか群像劇ですらない。水兵と民衆の2組に分割されているものの、本作の主人公は紛れもなく群集自身である。
 やがてスターリンの独裁が始まると、彼の意向のもとでエイゼンシュテインは民族的英雄をとりあげた映画をつくらざるを得なくなる。それは単なる映画の問題ではなく、ロシア革命そのものが何か決定的な変質をこうむったことの表れなのである。