CureTochan

トゥルーマン・ショーのCureTochanのレビュー・感想・評価

トゥルーマン・ショー(1998年製作の映画)
4.8
家族で鑑賞して、いろいろわかった。若い頃に観たとき、なにこれ最高オブ最高やんけ!と思いながらも、ラストで視聴者たちが快哉を叫ぶ理由がいまいちわからなかった。映画を見ている私にとってはハッピーエンドだけども、テレビ視聴者は、何なら製作者と同じサイドではなかったのか?彼に、出ていくなと言う側では?

実に20年以上ぶりに再鑑賞して、視聴者は共感して喜んだこと、そもそも映画の中ではずっと、トゥルーマンに感情移入していることが理解できた。なにしろアメリカ人は、我々よりも共感力が高い。そのために映画を観る人間も多いのである(アメリカも韓国も、平均鑑賞回数が日本人の3倍とか)。だからホームレスに、お父さん!!と叫んでしまった以降の流れは、ディレクターもハプニングをうまく料理して、観てる側の希望に応えていたのだ。ただ、トゥルーマンが恋に落ちたところもしっかり観ていて、あの彼女が忘れられないのね、なんて言ってるあたり、視聴者もトゥルーマンに対して残酷すぎるように見える。そこは善意で推測するならば、あの辞めさせられた女優のイレギュラーな行動について、視聴者にはウソの説明をしていたのだろう。

この映画はロッテンのスコア95%からして、英語圏では知らない人がいない名作であり、いろんな分野からの論評が、英語版Wikipediaには書いてある。そんなふうにさまざまに語れること自体が、本作が優れた、実のある寓話だという証拠だ。そして映画としても、次々に面白いシーンがビシバシ決まりまくるし、詩情ゆたかなシーンも多い。あの親友がウソを言わされるところ、あの顔が(そしてアノ人物の登場が)、ほとんど決め手になったわけだわな。

昔話なんかではよくあることかもしれないが、寓話や芝居としての素晴らしさを取り除いていくと、実は奇妙なことがたくさん残る。あんなに視聴者を喜ばせていたディレクターが、最後にはトゥルーマンに、外へ出ていくな、と視聴者とは逆のことを指示するところ。あれで彼が中に留まったとしても、もはや「普通のリアリティショー」にしかならないのだから、ショーは終わりだ。この映画を「リアリティショー」と一緒にしている人がいるが、本人が気づいていないのだから、単なる盗撮である。しかし、もっと面白いのは、ディレクターがそうやって毒親みたいなモードになったことによって、ショーがやっぱり視聴者を喜ばせる大団円となり、成功してしまったことだ。そこまでわかっていて、ディレクターは行動した、というのだったらあるいは奥行きがあったかもしれない。主人公が悪者に勝った、というわかりやすい終わりにはならないが・・

この映画の楽しみどころは、終わり方ではなく、SF的な楽しみ、つまり世界がウソっぽいことによる浮遊感とか、人生について考えてしまう、途中の面白い会話だ。トゥルーマンは、何も知らないままのほうがよかったのだろうか?いや、というか、トゥルーマンのような状況は、気の利いた人間であれば、誰しも一度は疑ってみることだ。つまりこの状況自体は、妄想としては、なんなら普遍的なものと言える。さらにたとえば、嫁さんが自分を本当には愛していないといったこと一つでも、人は不幸になるし、トゥルーマンの場合も発端はそれである。逆に言うと、そのへんが満足だと、最初から問題は存在しないことになる。もちろん夫婦生活が完璧で、何の不満もない毎日でも、それが現実だと思えないこと自体が不幸でもある(トータル・リコールとかアニメのコブラみたく)。それが正解だった(しかも世界のほうが騙すのが下手だった)、という特殊なケースの実写化が本作なのであって、ディレクターも視聴者も、どこかクレイジーな感じがしてしまうのは当然だ。この奇妙な状況が、いわば主人公なのである。

最終的にトゥルーマンが外へ出ていきたいと思う理由が、あのモンタージュを作っていた例の彼女に会うことだけではなく、もっと人生全体に関わる動機だというのも大事で、そのへんはうまく処理したなぁと思う。個人的には、かなり欠点の少ない映画だと言いたい。
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