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揺れる大地のotomisanのレビュー・感想・評価

揺れる大地(1948年製作の映画)
4.3
 若しくは「われらの海」。そのむかし、数寄屋橋で「われらの海」として見染めたそれは今では10チャンネルの「揺れる大地」に身をやつしていた。
 周期数百秒の帯域で固体地球が振動し続けている事は"常時地球自由振動"[Nawa et. al (1998)]として知られている。しかし、エトナ山のふもとの村、おととい出てきたような溶岩の上で遊んでるウントーニとエッダを見ていると火山性地震かとも。
 いずれこんな貧しい大地であり、塩っ辛く貧しい地中海の漁獲が生業のウントーニ物語である。魚種においては日本近海の1割半ほど、魚も暮らし辛い海が拠り所の人間稼業だから揺さぶられっ放し、楽なわけがない。揺さぶる「trema」とは波、頼りない「Terra」とは海のたとえに過ぎないかも知れない。
 常時地球自由振動は海洋波浪による励起が一部あるとされるが、海兵としてイタリア各地の事情を知ったウントーニもまた、海に育てられ生かされた、海に励起された漁師である。彼は産まれたこの村の貧しさを、農産に頼れず水産に過大に依存し、仲買の中間搾取に目をつむったことによって、経済を漁業者は貧しく、仲買は富ませるという歪んだ構造に導いた結果の人的災害であったと断じる。

 ただウントーニとアーチ・トレッサ村ばかりではない、工業であれ農業であれイタリアは南に向かうほど所得が低い。天使も踏むを恐るる[Forster(1905)]中部農村までならある種の天国、その南、ナポリのさらに南では、キリストさえそこまでと歩を止めたと伝わる[Levi, Carlo(1953)]程に貧困未開ぶりが取沙汰されてきた。
 そんな南部開発に先立って地元マフィアを弾圧したファシスト党に対し、大戦で侵攻の手引きとするためイタリア系出自の兵を通じてマフィアを支援した米軍、そうした経緯をうかがう事は出来ないのも不思議であるが、仲買連が「Societa」を立てて価格カルテルを組んでいるところにマフィア的残滓、表立たずともおそらく村の全産業と自治を牛耳り、当然カターニャの銀行さえ巻き込んだ仕組みが感じられる。
 これらほんの数名の仲買に対し数百は数えるだろう漁民がいっときの暴発としてしか異議申し立てができない。暴徒として「財務警察」に検挙され、仲買の介入で起訴を取り下げられても漁民はそれに一致して乗じるだけの器量も示せずただうっぷん晴らしと酒飲みばなしのネタとする以上に手も足も出ないのは明らかだ。
 Leviが述べたようにキリスト教の受容も停滞した程と伝わる南部地方の人々の、経済的貧しさ、この村ならば漁労以上の協力関係や信頼関係も結べないらしい脆弱な漁村社会、公けやわたくしを知る義務教育すら影も見えないありさま等から感じるのは、手の届くはずの夢もそうとは信じられない、受けとめもできないという心の閉塞である。これはどのようにであるかいつか崩されたのだろうか。

 イタリア政府が「南部政策」を始める'50年代に何が起こったか実はほとんど資料が見当たらない。ただ、2022年1月のトレッサ村の外見はいい観光漁村の態である。かつて一艘の発動機船も無く、水揚げに網繕いに漁民が集まっていた礫浜は広場になり車で埋まり埠頭は漁船かプレジャーボートか見分けがつかない。昔のままなのはジョバンニ・ヴェルガ広場奥の教会、ウントーニを裏切る嵐が告げられる鐘が鳴らされた教会と広場の水盤だけである。
 この大変化を支えたのはおそらく、ウントーニの弟、コーラのような、村を離れ(ただし、当のコーラの出奔はどこか後ろ暗い。おそらく何かの悪行に加担する内密の離郷だろう)北伊、欧州北部や米国に出稼ぎにいった者たちの仕送りだろう。さらにEUに入って観光収入がその仕上げを施してくれるとは、当時'47年の秋から冬には想像もつくまい。しかし、それからの日々をウントーニの下の妹たちならまだ記憶にとどめてあの村で暮らしいるかもしれない。

 映画の完成から数年後に始まる南部政策が零細漁民を支援に値するとみなしたか、あるいは村を優良な漁場、漁村と認めたか、マフィア的仲買を排除した社会の創生に踏み切れたか?今の村のGoogle画像からは防波堤と岸壁以外ひとつの痕跡も窺えない。
 ただ、マフィアに関しては各地の法廷を要塞化してでもその支配を崩す司法と警察の試みが、つまりローマの政府の意向で続いたことは記憶されるべきだろう。しかし、どこまでもここは南部でシチリアである。イタリア自体、経済の実態が統計で把握できるのも6割7割などと揶揄されたなか、世間に生きる事の表と裏が良くも悪くも生をいい塩梅に潤している事を思わないでいられない。ウントーニが表立って怒るこの社会の一面が何らかの実相を示すとしても、その裏で多くの漁民はマフィア的仲買からどんな利益配分に与っているか知れないし、その具体的ありさまをモドローネの伯爵であるヴィスコンティや共産党に軽々に語る者などいるはずもない。それが組織の下で生きるという事だろう。
 共産党肝入りとも聞くこの映画だが、ウントーニが漁製販一体を目指して立てた数百人に一人の漣がわずか数名の仲買Societaに阻まれ、漁民誰ひとりの共鳴も起こせず鳴りやんでゆくなか、失業し、破産し、離散する一家の支えにもなれず、コーラ、妹モーラ、ルチアの若さも奪われた末、自身の心まで零落したウントーニであった。それでも遂に、貧乏人なりとも失うまいとした誇りの現れである元海兵の身なりも捨てて一家の立て直しのため元通り仲買の求人に応じる姿はどこか眩しい。しかし、眩しいながらも75年を経た今の村を眺めると、その日、名も知らぬ小娘がウントーニの、元の持ち船がこの先誰のものになるのかも分からないまま補修されてゆく傍らで「たすけてあげたい、できたら」と告げるやさしい白昼夢は、それに続くウントーニの決心を打ち消すようにことさらに虚しく響く。
 とはいえ、どんな戦後を歩むのか何も分からない当時、漁民らが未だ可能とは、あるいは必要とは認めなかったウントーニの志について、むしろ彼を必要とする搾取者の中からであればこの悪い構造自体を揺さぶれると'48年の彼、ウントーニは思っただろうか?結果何が起こるか、ウントーニを降して浮かれた仲買らの寝首がいかに掻かれるか、再びの漣が今度はうねりを励起し、いつかTerraを励振させるかも知れない。しかし、そんな期待を露ほども感じさせない一介の漁労者となったウントーニの最後に、これがヴィスコンティであるか、と、かつてと変わらぬ思いが残った。

 これが劇場で見た最後の映画で、すでに四半世紀経った。当時、フィルムの状態が悪いため映写光量を極度に落としての映写会となった。おかげで外光昼景以外は何が映っているかろくに分からない。見ているうちに視覚が光量不足のため解像を諦め視野が混沌としてしまうほどであった。
 主催者の、暗いです、との断りを承知で見に行ったもののこれほどとは。視界がもやもや定まらないと平衡感覚までもやもやし始め頭の中はまさに「揺れる大地」状態になるという具合で、視覚と平衡感覚に関する新発見のようで面白いくらいであった。
 当時のタイトルは「われらの海」と思ったが、正鵠を射た改名だ。ただ旧名をネットで探してもまるで魚信がない。というわけで、以来劇場鑑賞は座礁したままである。

 それにも関わらず、「われらの海」の漁火を灯した小舟が古風にラテンセイルを連ねて戻る朝凪は朧なりとも美しく、長良川の鵜飼いのように密集した夜の絵も微かな漁労風景も想像力大回転の末、物珍しく記憶している。しかし、あんなに混み合ってなにが獲れるのだろう?
 字幕など無かったはずだが、物語りのあらすじもくまなく覚えているのが不思議なくらいである。そこが映画経験の浅いわたしがヴィスコンティの最初期の映画に触れる稀な機会を得たればこそだったろう。
 しかしまさにそのためなのか、あらためて眺める今のかんばせの明眸麗しきは結構なれど、どうもあの頃の感じが伴わないのである。輪郭も朧な当時の絵ほどの「活気」がよみがえってこない。そこがテレビと劇場の違いなのか?ただ齢は取った、お互いに。だが、明らかに若返った「われらの海」がなにか直訳な「揺れる大地」に臈長けてしまったようで妙によそよそしいのだ。
 なるほど、ふり返ればそこがあの時は、朧に映る絵を想像力の総動員で解像に努め、事前に伝えられたあらすじを頼りに物語の理解を深みへと強攻掘進させた力仕事の鑑賞であったわけで、あたかも「われらの海」をヴィスコンティと共同制作したかのような感情の大投入のまま見終えたという事である。あらためて解釈し直せたものの、あの頃の力技になにか及ばないこの心の動きの乏しさも、ひとえに、この物語の描く時代の若々しさへの共鳴がまだ当時の自分にはできたという事だろうか。
 あらためてよその誰かとなったと知る「揺れる大地」に、達者で、と告げるようなこの気分は、四半世紀前、あのころ知り得なかった本当の「われらの海」への別れの淡さとなって心を漣だたせている。
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