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「揺れる大地」に投稿された感想・評価

parkoldies

parkoldiesの感想・評価

3.7
授業で鑑賞。

最後の感じが音楽といい、カメラワークといい、主人公の表情といい、『波止場』のような盛り上がりがあり、割とネオリアリズモの作品群の中でも異質な印象を受けた。
ただ、かなり長い。
一人旅

一人旅の感想・評価

4.0
ルキノ・ヴィスコンティ監督作。

ヴァラストロ一家はシチリアの漁村に暮らしている。一家は漁をして生計を立てているのだが、釣った魚は仲買人によって安く買い叩かれてしまう。長男アントーニは仲買人による不正な取引に反発し、自分たちの手で魚を売りにいくことを決意するが・・・。

人間の生きる力(雑草魂)を強く感じさせる作品だ。
漁村の老人(アントーニの祖父含め)は仲買人による搾取が当たり前のことだと認識してしまっている。だから仲買人による搾取に疑問すら持たない。少し言い過ぎかもしれないが、老人は思考する人間ではなく、何も考えずひたすら働き続ける蟻のような存在だ。
一方の若者アントーニは“当たり前”を疑い打ち破ろうとした。自分たちがいつまで経っても貧しい理由はどこにあるのか。その答えを見つけ出し、現状を打破しようと権力に挑戦した。

しかし、アントーニ以外のほとんどの若者は今の細々とした貧しい生活すら失うことを恐れてアントーニの独立呼びかけに応じない。しまいにはアントーニ一家を敵視するのだ。

この映画において、未来を見据えた人間はアントーニただ一人だったのかもしれない。
Tatsu

Tatsuの感想・評価

-
辛い。疲弊と諦念。そして海へ帰る。長尺、ドキュメンタリータッチという集中疲労型映画だが、映っている人々の自然な衣装と演技、リアリティを保つその顔が良い。
ぽち

ぽちの感想・評価

2.0
搾取される人々の悲劇を描いているのだが、あまりに救いが無く気がめいる作品。
また、70年以上の歳月がテーマ自体を風化させていて、正直なところ今この作品を観て社会的テーマに共感する事は出来ない。

確かに今の方が強者による搾取は多くなっているのかもしれないが、それをサポートする社会制度もあるし、特に日本では主人公に感情移入はしずらい。

まるで江戸時代の悪徳大寒に苦しめられる農民を見ているようで、リアリティがない。って感じてしまうのはリアリズムを追求した今作にとって皮肉だろうか。

ネオリアリズモ自体が理解に苦しむ思想で、その上に建てられた今作は賞味期限切れと言って良いのではないだろうか。

ってことで、好き放題書いているけど、ホント、ごめんなさい、正直に言わせてもらうと、ネオリアリズモって何?
これが理解できていないと今作の根底にあるテーマはまったく見えないのではないだろうか?

で、WIKI,を見ると
「リアリズムの方法で現実を描写する傾向は、当時のイタリアで支配的だったファシズム文化への抵抗として、また頽廃主義の克服として、1930年代ごろすでにあらわれ始めた新たな社会参加から生まれた。」

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「ネオレアリズモが確固たる地位を得たのは1943年から1950年にかけてである。この時期はファシズムとナチズムに対する抵抗の時期であり、また戦後の混乱期であった。この間多くの作家が、初めはパルチザン闘争に、次いで政治的議論に関わりあった。パルチザン闘争、労働者の要求、市民の暴動といった主題が、この時期のネオレアリズモ映画やネオレアリズモ文学によく現れる。」

????????????????

もうね、分からんですよ。
だから個人的に「風化したテーマ」と思うわけで・・・・・・・

これを無視してストーリーだけを追い悲劇としてドラマを楽しんだとしても、それは今作の存在意義とは別のところではないだろうか。

確かにいったん公開され作者の手を離れれば、どのように楽しもうが視聴者の勝手だが、今作の悲劇だけを強力に描いた物に共感は出来ず、もし感動するのならそのテーマにするしかないのでは?

ネオリアリズモを理解し、今作に感動している方々って、すっげ~!!!って思った作品。
otomisan

otomisanの感想・評価

4.3
 若しくは「われらの海」。そのむかし、数寄屋橋で「われらの海」として見染めたそれは今では10チャンネルの「揺れる大地」に身をやつしていた。
 周期数百秒の帯域で固体地球が振動し続けている事は"常時地球自由振動"[Nawa et. al (1998)]として知られている。しかし、エトナ山のふもとの村、おととい出てきたような溶岩の上で遊んでるウントーニとエッダを見ていると火山性地震かとも。
 いずれこんな貧しい大地であり、塩っ辛く貧しい地中海の漁獲が生業のウントーニ物語である。魚種においては日本近海の1割半ほど、魚も暮らし辛い海が拠り所の人間稼業だから揺さぶられっ放し、楽なわけがない。揺さぶる「trema」とは波、頼りない「Terra」とは海のたとえに過ぎないかも知れない。
 常時地球自由振動は海洋波浪による励起が一部あるとされるが、海兵としてイタリア各地の事情を知ったウントーニもまた、海に育てられ生かされた、海に励起された漁師である。彼は産まれたこの村の貧しさを、農産に頼れず水産に過大に依存し、仲買の中間搾取に目をつむったことによって、経済を漁業者は貧しく、仲買は富ませるという歪んだ構造に導いた結果の人的災害であったと断じる。

 ただウントーニとアーチ・トレッサ村ばかりではない、工業であれ農業であれイタリアは南に向かうほど所得が低い。天使も踏むを恐るる[Forster(1905)]中部農村までならある種の天国、その南、ナポリのさらに南では、キリストさえそこまでと歩を止めたと伝わる[Levi, Carlo(1953)]程に貧困未開ぶりが取沙汰されてきた。
 そんな南部開発に先立って地元マフィアを弾圧したファシスト党に対し、大戦で侵攻の手引きとするためイタリア系出自の兵を通じてマフィアを支援した米軍、そうした経緯をうかがう事は出来ないのも不思議であるが、仲買連が「Societa」を立てて価格カルテルを組んでいるところにマフィア的残滓、表立たずともおそらく村の全産業と自治を牛耳り、当然カターニャの銀行さえ巻き込んだ仕組みが感じられる。
 これらほんの数名の仲買に対し数百は数えるだろう漁民がいっときの暴発としてしか異議申し立てができない。暴徒として「財務警察」に検挙され、仲買の介入で起訴を取り下げられても漁民はそれに一致して乗じるだけの器量も示せずただうっぷん晴らしと酒飲みばなしのネタとする以上に手も足も出ないのは明らかだ。
 Leviが述べたようにキリスト教の受容も停滞した程と伝わる南部地方の人々の、経済的貧しさ、この村ならば漁労以上の協力関係や信頼関係も結べないらしい脆弱な漁村社会、公けやわたくしを知る義務教育すら影も見えないありさま等から感じるのは、手の届くはずの夢もそうとは信じられない、受けとめもできないという心の閉塞である。これはどのようにであるかいつか崩されたのだろうか。

 イタリア政府が「南部政策」を始める'50年代に何が起こったか実はほとんど資料が見当たらない。ただ、2022年1月のトレッサ村の外見はいい観光漁村の態である。かつて一艘の発動機船も無く、水揚げに網繕いに漁民が集まっていた礫浜は広場になり車で埋まり埠頭は漁船かプレジャーボートか見分けがつかない。昔のままなのはジョバンニ・ヴェルガ広場奥の教会、ウントーニを裏切る嵐が告げられる鐘が鳴らされた教会と広場の水盤だけである。
 この大変化を支えたのはおそらく、ウントーニの弟、コーラのような、村を離れ(ただし、当のコーラの出奔はどこか後ろ暗い。おそらく何かの悪行に加担する内密の離郷だろう)北伊、欧州北部や米国に出稼ぎにいった者たちの仕送りだろう。さらにEUに入って観光収入がその仕上げを施してくれるとは、当時'47年の秋から冬には想像もつくまい。しかし、それからの日々をウントーニの下の妹たちならまだ記憶にとどめてあの村で暮らしいるかもしれない。

 映画の完成から数年後に始まる南部政策が零細漁民を支援に値するとみなしたか、あるいは村を優良な漁場、漁村と認めたか、マフィア的仲買を排除した社会の創生に踏み切れたか?今の村のGoogle画像からは防波堤と岸壁以外ひとつの痕跡も窺えない。
 ただ、マフィアに関しては各地の法廷を要塞化してでもその支配を崩す司法と警察の試みが、つまりローマの政府の意向で続いたことは記憶されるべきだろう。しかし、どこまでもここは南部でシチリアである。イタリア自体、経済の実態が統計で把握できるのも6割7割などと揶揄されたなか、世間に生きる事の表と裏が良くも悪くも生をいい塩梅に潤している事を思わないでいられない。ウントーニが表立って怒るこの社会の一面が何らかの実相を示すとしても、その裏で多くの漁民はマフィア的仲買からどんな利益配分に与っているか知れないし、その具体的ありさまをモドローネの伯爵であるヴィスコンティや共産党に軽々に語る者などいるはずもない。それが組織の下で生きるという事だろう。
 共産党肝入りとも聞くこの映画だが、ウントーニが漁製販一体を目指して立てた数百人に一人の漣がわずか数名の仲買Societaに阻まれ、漁民誰ひとりの共鳴も起こせず鳴りやんでゆくなか、失業し、破産し、離散する一家の支えにもなれず、コーラ、妹モーラ、ルチアの若さも奪われた末、自身の心まで零落したウントーニであった。それでも遂に、貧乏人なりとも失うまいとした誇りの現れである元海兵の身なりも捨てて一家の立て直しのため元通り仲買の求人に応じる姿はどこか眩しい。しかし、眩しいながらも75年を経た今の村を眺めると、その日、名も知らぬ小娘がウントーニの、元の持ち船がこの先誰のものになるのかも分からないまま補修されてゆく傍らで「たすけてあげたい、できたら」と告げるやさしい白昼夢は、それに続くウントーニの決心を打ち消すようにことさらに虚しく響く。
 とはいえ、どんな戦後を歩むのか何も分からない当時、漁民らが未だ可能とは、あるいは必要とは認めなかったウントーニの志について、むしろ彼を必要とする搾取者の中からであればこの悪い構造自体を揺さぶれると'48年の彼、ウントーニは思っただろうか?結果何が起こるか、ウントーニを降して浮かれた仲買らの寝首がいかに掻かれるか、再びの漣が今度はうねりを励起し、いつかTerraを励振させるかも知れない。しかし、そんな期待を露ほども感じさせない一介の漁労者となったウントーニの最後に、これがヴィスコンティであるか、と、かつてと変わらぬ思いが残った。

 これが劇場で見た最後の映画で、すでに四半世紀経った。当時、フィルムの状態が悪いため映写光量を極度に落としての映写会となった。おかげで外光昼景以外は何が映っているかろくに分からない。見ているうちに視覚が光量不足のため解像を諦め視野が混沌としてしまうほどであった。
 主催者の、暗いです、との断りを承知で見に行ったもののこれほどとは。視界がもやもや定まらないと平衡感覚までもやもやし始め頭の中はまさに「揺れる大地」状態になるという具合で、視覚と平衡感覚に関する新発見のようで面白いくらいであった。
 当時のタイトルは「われらの海」と思ったが、正鵠を射た改名だ。ただ旧名をネットで探してもまるで魚信がない。というわけで、以来劇場鑑賞は座礁したままである。

 それにも関わらず、「われらの海」の漁火を灯した小舟が古風にラテンセイルを連ねて戻る朝凪は朧なりとも美しく、長良川の鵜飼いのように密集した夜の絵も微かな漁労風景も想像力大回転の末、物珍しく記憶している。しかし、あんなに混み合ってなにが獲れるのだろう?
 字幕など無かったはずだが、物語りのあらすじもくまなく覚えているのが不思議なくらいである。そこが映画経験の浅いわたしがヴィスコンティの最初期の映画に触れる稀な機会を得たればこそだったろう。
 しかしまさにそのためなのか、あらためて眺める今のかんばせの明眸麗しきは結構なれど、どうもあの頃の感じが伴わないのである。輪郭も朧な当時の絵ほどの「活気」がよみがえってこない。そこがテレビと劇場の違いなのか?ただ齢は取った、お互いに。だが、明らかに若返った「われらの海」がなにか直訳な「揺れる大地」に臈長けてしまったようで妙によそよそしいのだ。
 なるほど、ふり返ればそこがあの時は、朧に映る絵を想像力の総動員で解像に努め、事前に伝えられたあらすじを頼りに物語の理解を深みへと強攻掘進させた力仕事の鑑賞であったわけで、あたかも「われらの海」をヴィスコンティと共同制作したかのような感情の大投入のまま見終えたという事である。あらためて解釈し直せたものの、あの頃の力技になにか及ばないこの心の動きの乏しさも、ひとえに、この物語の描く時代の若々しさへの共鳴がまだ当時の自分にはできたという事だろうか。
 あらためてよその誰かとなったと知る「揺れる大地」に、達者で、と告げるようなこの気分は、四半世紀前、あのころ知り得なかった本当の「われらの海」への別れの淡さとなって心を漣だたせている。
犬

犬の感想・評価

3.8
塩漬け

小さな村で漁師を生業としているヴァラストロ一家
寝ずに漁を行っても網元から搾取され、貧しい生活は好転しない
見かねた長男のウントーニは、網元からの独立を決意するが……

イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティの監督第2作

シチリア出身作家の長編小説をベースに描いた物語で、シチリア島の漁師たちを出演させてドキュメンタリータッチに撮影した意欲作



ナレーションあり


雰囲気がありました

港町
どうしようもない状況なのか

戦い
仲買人との交渉

漁師たちの人間模様

家族
ロマンスもあり

社会派な内容

天候
待つ人の想い

終始なんとも言えませんでした
みんと

みんとの感想・評価

4.1
ルキノ・ヴィスコンティ監督によるネオレアリズモの代表作。
仲買人の不当な搾取に憤る若い漁師の独立への闘いと苦悩を描く。

あぁぁぁ… 当然の事ながら1ミリとて救いがない。容赦ない。そこでFinはあまりにも辛い。

最大級の華やかさで描く格調高いヴィスコンティ作品群とは真逆。後の『若者のすべて』にも通じる当時のイタリア社会の貧困を捉え、格差社会の底辺で喘ぐ家族の姿が容赦なく描かれる。

どこかで状況を打破しなければ、言いなりで良い筈が無い。若さ故の行動は理解は出来る。ただ、そう甘くない現実と更なる悲劇を呼ぶ危険性にまでは考えが及ぶはずもなく…

シチリアのカターニャ郊外、アーチ・トレッツァで撮影され、家や通り、舟、海まで現地のもの。更に出演者はこの土地の住人や漁師から選ばれたと言う今作。それが生々しいまでのリアリティを生んでいたと思う。

…彼らは反抗や苦しみ希望を示す言葉を知らない。
シチリアでは貧しい人々はイタリア語を話さない…

冒頭のナレーションがことの他ずっしりのしかかる大作だった。
トミー

トミーの感想・評価

4.0
初ヴィスコンティ。時々えらい絵画的になる。最近の映画よりよほど遠近を感じる場面が多かった
2022/2/20観賞2回目
5年ぶりに観たけど、これはもう魂の傑作
初めて観た時はシーンによっては眠くなった。だけどどうしようもなくうまくいかない、ひたすらに落ちていく光景に目を見張った。
久しぶりに観て彼らが対峙するものの大きさを感じて、それはより強固に感じた。
彼らは華麗なアクションの無い、虚構じみた構図の無い、鈍重な現実の世界を生きている。
映画の主人公のように羨望の目(それは背徳的な意味でも)を向けられない彼らとシチリア島は異様なまでに俺の目の前に立ちはだかってくる。
そして壮観な寓意を突きつけてくる。
藤見実

藤見実の感想・評価

4.7
リアリズムがここまで作為的に作られた画面と融和するとは思わなかった。イタリア共産党からの資金で撮った仲買人のち網元に搾取される漁民を描いた映画、「シチリア人よ、団結せよ」というメッセージが実にカメラ目線で語られる。途中までのあらすじは『我が谷は緑なりき』と似ているし、過酷な環境は『パードレパドローネ』に似ているのだが、全くそれらとは似つかない映画。

ドキュメンタリー「タッチ」であることなどもはやどうでもよい。シネマヴェリテより文字通りのシネマヴェリテ。

同時録音だから周囲の環境音が入りまくる。そこかしこで歌が歌われ、音楽が奏でられる。ラストはブラックアウトした後に船を漕ぐ音が入る。
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