朱音

灼熱の魂の朱音のネタバレレビュー・内容・結末

灼熱の魂(2010年製作の映画)
4.7

このレビューはネタバレを含みます

子らによる親の再発見、憎しみに彩られた悲劇の連鎖を断つ物語。


レバノン出身の劇作家ワジディ・ムアワッドによる原作戯曲『焼け焦げるたましい incedcies』にインスパイアされて作られたのが本作、『灼熱の魂』である。

双子の姉弟は、思いもよらない母親の、そして家族の隠された過去を知ることになる。一つの家族の歴史と、今なお戦争の危機に晒されている中東の暴力連鎖の歴史が複雑に交錯する、ギリシア悲劇にも似たスケール感で綴られる、憎しみの映像叙事詩が観るものを圧倒していく。

1970年代半ばにレバノンを壊滅させた内戦に想を得た原作戯曲の世界観を映画として再構築する為に、2年間を脚本に費やしたというドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は、その間も、イスラエル軍によるレバノン侵攻(2006年)やイスラエル軍とハマスによるガザ紛争(2008年)といった暴力の連鎖が続く中、この負の連鎖を断ち切るには、第三者の力が必要であるという”メッセージ”を、監督自らの出自とも無縁ではない”公証人”という存在を、原作よりも更に目に見える形で物語に介入させることで、原作戯曲の複雑な語りの世界を可視化することに成功した。
またムワアッドの戯曲『incedcies』は2009年に日本でも上演されている。

本作『灼熱の魂』は、非常に重いテーマの映画ながらもミステリーとして、エンターテインメントとして楽しめる作品であった。


カメラのこちら側を見つめる少年。
レディオヘッドの『You And Whose Army』が印象的に鳴らされる冒頭のシーンにて、カメラのこちら側を強い眼差しで見つめる少年、彼はその虚ろな眼で伝える。私たちが熾烈を極める憎しみと愛の悲劇の"証人"であることを。

この冒頭のシークエンスについて、ヴィルヌーヴ監督はこう語る。

「私は、このように登場人物がある的確な段階で観客に向かって直接見つめているというシーンが好きなんです。つまりあなた方に証人になってもらいます、しっかり見て下さいという意味の眼差しであり、同時に自分たちはこういう中にいるからという呼びかけになっていると思うのです。」

観客を証人として呼び込む手法である。カメラをこのように直視する手法には極めて映画的なインパクトがある。最初にこの無言のコミュニケーション(一方的だが)という、訴えかける眼差しがあって、それ以降、この人物はずっと画面に出てこないという形になる訳だが、しかしそれは実は嘘で、姿は見えないながらも、絶えず映画の中に存在し続ける人物となる。

またレディオヘッドの楽曲を使用したのは、ムワアッド氏に本作の映画化の交渉を持ち掛ける以前に書かれたいくつかのシークエンス・イメージにおいて、このような考えがあったからだと伝える。

「つまり中東のシーンの上に、それと対極にあるかのような西洋の音楽を持って来ることで、第三者の視点を導入したかったのです。つまりエイリアン・ランドスケープというような雰囲気のものを出したかったんです。」

戯曲の方は公証人の事務所から始まるのだが、ヴィルヌーヴ監督は、その前にもう少し映画に引き込むようなシーンを追加したかったようだ。
そのために必要であったのが、どのような温度感でこの映画は始まるのか、ということと、カナダ人のヴィルヌーヴ監督が本来無関係である中東の物語を描くにあたって、その中にはいない異端者の視点で中東のシーンを見ているというイメージを作り出したかったそう。
『You And Whose Army』は出だしの部分が子守唄を連想させる響きがある。さらにメランコリックな雰囲気、"聖なるもの"に対するイメージ、そして歌詞の部分がシーンと合致しているのだ。
このシーンを描くにあたって、他の曲の候補はなかったと監督は明言している。


劇中の講義が示すもの。
本作において、まず行動を起こすのは姉のジャンヌだ。彼女は純粋数学を専攻し、教授の助手を務めている。教授は講義で学生たちに純粋数学を以下のように説明する。

「今まで学んできた数学は明解で決定的な答えを求めるものだった。これからは変わる。答えのない問題へと続く解決不能な問題に直面するようになる。想像を絶するほど複雑で難解な問題を前に自分を守るすべはなくなる。純粋数学、孤独の王国へようこそ。」

これは、ヴィルヌーヴ監督の特徴で、前作『静かなる叫び』においても用いられていた手法だ。
つまり、講義という形を借りて、作品が示すその形を明確に説明しているのだ。彼の作品においてこうした講義は単に作品にペダンティックな格調を齎すためだけではない。きちんと意味のあるものとして機能しているのだ。


異なる時制の交錯。
本作は、姉弟がナワルの足跡を探しに行く"現代"とナワルが生きていた"過去"とが交錯し、物語が展開されてゆく。これは原作の戯曲では俳優同士の対話の中で過去が語られてゆくという形であったのだが、ヴィルヌーヴ監督はひとつの物語の中で時制の異なる同時進行というアプローチをとっている。主人公であるナワルは物語のスタートの時点で既に故人となっているので、厳密にはこの手法はフラッシュバック回想とは異なる。時制を跨ぐ登場人物たちの"今"を繋いだことに対してヴィルヌーヴ監督はこう語る。

「なぜ二つを”今”という感じで進行させたかといえば、例えば、娘の話がずっと展開していて母の話になる、そうすると娘のシークエンスの気持ちのまま母のシーンに入っていけるわけです。そして母のシーンを観ている時に、また娘や息子に戻るということは感情的に同じ流れの中でそこへ戻ってくる。時制の違いはあるけれど、今の感情がそのまま行き来するという形をとったわけです。」

更には地理的な違いというのが出てくるが、同じ感情の流れの中で、今まで見ていたシーンの延長線上で入ってゆくことで、時と場所の違いを埋めているようだ。
編集の時点で少しの変更はあったようだが、本作はほとんどのシークエンスにおいて、原作の戯曲を忠実に再現したと語る。


公証人という存在。
戯曲の中でも公証人はすべての事情を知っているわけではない。しかしながら彼は、良きサマリア人の如く、非常に寛大な気持ちで、子供たちに対する優しさとある種の厳しさを持った人物として物語に介在する。
ムアワッドの戯曲の素晴らしさを、「こういう気持ちの広がりというか、寛大な気持ちというのが表現されているところです。」と評した上で、戯曲から変更した点、つまり公証人の本作におけるその役割や表現についてヴィルヌーヴ監督はこう語る。

「それをそのまま持っていこうとしても映画では上手くいかないんです。中東にシモンと一緒に公証人も行くというようなことをしなければ見えてこない優しさになるわけです。」

この物語はジャンヌとシモン、2人の子供が、母を再発見し、父を探す旅へとなるのだが、本作のこうしたアプローチによって、公証人という、元々は物語への導入における導き手の存在であったものが、こうして2人を支える"父性"を担う役割を持っているのも興味深いところだ。彼の存在なくしては、文字通り素人2人の捜索は行き詰りを迎えていたわけだが、それ以上に、精神的な支柱となって物語に介在することで、ジャンヌとシモンがその過酷な事実を受け入れる過程を、潤滑剤のような形で、より自然に、スムーズにしているのだ。

公証人とはそもそも、何かの仲立ちを担うものであり、本作においては、死者と残された生きている者たち、物質と非物質的なもの、人と物との橋渡しをする存在として描かれている。
つまりは公証人の口を借りて死者の気持ちというものが代弁されたり、死者が亡霊のように現在に現れ、公証人の口を借りて、役割を演じるということになるわけだ。
そして、この件に関して様々な事を記載をし、それが現実であることを証明するのはこの公証人しかいないということだ。中東にこの公証人を連れてゆくというアイデアが、先述した事柄を須らくスムーズに接続する機能を齎している。


ムアワッドによる原作戯曲は、約4時間にわたり登場人物が語りつづける膨大な内容だ。
そこには数多くの引用やインスパイアが含まれている。本作はギリシャ悲劇やウィリアム・シェイクスピアの作品群と比較して語られることが多い。それもそのはずで、この物語は、演劇の起源のひとつとも言われるギリシャ悲劇の傑作『オイディプス王』を下敷きとしている。
例えば映画のファースト・シーンに登場する少年には、右足の踵に三つの黒い点があるが、これがラストまで物語の鍵を握っている。同じく「オイディプス王」でも、「オイディプス」という言葉が意味する"腫れた足"が展開を大きく左右するのである。

『灼熱の魂』はこのようにギリシャ悲劇を下敷きに、個人史をめぐるミステリーを壮大なスケールで描いた。撮影はヨルダンと、監督の出身地でもあるカナダ・ケベックで行われたが、雄大な風景と個人を対比させることで、物語のスケールを人間の存在に留まらず、神話的な領域にまで高め、同時に人物の心理と心象風景を描き出したのである。

ヴィルヌーヴ監督のフィルモグラフィを見返してみると、彼の作家としての核は意外にもシンプルに映る。ある過酷な環境下を個人が生きること、宇宙規模の戦争から、個人同士の葛藤まで、世界に溢れる理不尽な暴力と対立を描くこと、そして、その中から新しい希望と可能性を掴み取ろうとすることだ。その上で、個人と世界を常に画面に収め、等身大ではなく神話的なスケールを求めるのがヴィルヌーヴ監督の視座であり、彼の作ろうとする世界なのだ。

またヴィルヌーヴ作品の特徴には、ときに評論家や観客の間で、冗長、鈍重、と批判されることもあるほど、じっくりと丹念に世界を映し取らんとする映像のリズムが挙げられる。『ブレードランナー 2049』や『DUNE デューン』など近年の作品にその傾向は顕著だが、『灼熱の魂』にもその萌芽は現れている。

ロシアの映画監督、アンドレイ・タルコフスキーの影響を受けていることを横においても、このヴィルヌーヴ監督の時間感覚は、彼の作品がもつ破格のスケールに繋がっている。タルコフスキー作品がそうであったように、ヴィルヌーヴ監督の映像リズムも、現実につきまとう"本当らしさ"やリアリティを一度解体し、再び構築する。
ヴィルヌーヴ作品に日常や時代をどこか突き放すような魅力があるのはそのためだろう。


さいごに。
ヴィルヌーヴ監督は2011年の公開当時に、

「『灼熱の魂』は、ジャンヌとシモンが母親の憎しみの根源へと至る旅でもあります。そこでふたりは憎しみと暴力にあふれた家族の歴史を再構成し、永遠に残る傷を負うことになります。これはとても普遍的なテーマで深く心を動かされました。しかし、脚本の中のドラマティックな要素のバランスを取るのにずいぶん長く時間がかかってしまいました。何しろひとつひとつのシークエンスがそれぞれ1本の映画の素材になりえるほどですから」

と語っている。

本作は、公開から10年以上経った現在の視点から見てもなお、胸を痛めずにはおれない民族や宗教間の紛争、社会と人間の不寛容がもたらす血塗られた歴史を背景に、その理不尽な暴力の渦中にのみ込まれていった女性ナワル・マルワンの魂の旅を、胸を引き裂かれるほどに鮮烈に描き出していく、ある意味で観る人にとっての"楔"のような意味を持つ、その上で最後には、留まるところを知らない憎悪と暴力の連鎖を断ち切りたいという母の祈り、そして深い"赦し"に出会うのだ。
圧倒的で衝撃的な映画体験だと私は思う。
朱音

朱音