タケオ

リバティ・バランスを射った男のタケオのレビュー・感想・評価

4.5
-フォードとウェインの最後の西部劇『リバティ・バランスを射った男』(62年)-

 『駅馬車』(39年)をはじめ、『アパッチ砦』(48年)『黄色いリボン』(49年)『探索者』(56年)などなど、ジョン・ウェインは生涯20本以上に渡りジョン・フォードの作品に出演してきた。ハリウッドにおける西部劇の礎を築きあげたフォードとウェイン。本作『リバティ・バランスを射った男』(62年)は、そんな黄金コンビにとっての最後の西部劇である。
 映画史を代表する黄金コンビとして名高いフォードとウェインだが、本作の制作に入った時点で、2人の不仲は最高潮に達していた。諸説あるが、ジョン・ウェインが『アラモ』(60年)で監督デビューを果たした際に、どうしても制作に携わりたかったフォードが現場に圧力をかけたことが原因とされている。いざ『アラモ』の制作が始まると、フォードが勝手に第2班を率いて撮影を始めたためウェインは激怒。他ならぬ自分自身の手で作品を制作したかったウェインは、フォードが撮影したフッテージを一切使用しなかった。するとフォードは「せっかく俺様が撮影してやったフッテージを使用しないとは何事か」と八つ当たり。「いや、頼んでないのにお前が勝手にやってただけだろ」とウェインは呆れ返った。そんなわけで2人の関係は修復不可能となり、西部劇としては本作を、そして映画としては次作『ドノバン珊瑚者』(63年)を最後に、黄金コンビは袂を分かつこととなった。まぁ、悪いのは大方フォードのほうであろう。
 撮影中はギスギスした2人がずっといがみ合っていたため、現場は終始緊張感に包まれていたという。ここまで関係が悪化してしまっては仕方あるまい。フォードの傲慢に付き合いきれなくなったウェインは、本作以降はハワード・ホークスやヘンリー・ハサウェイ、アンドリュー・V・マクラグレンらとともに西部劇を制作するようになる。老害ジジイと頑固ジジイの意地の張り合いによって、ハリウッド映画史におけるひとつの西部劇神話が終焉を迎えたのだ。それにしても、そんな2人の最後の西部劇となる本作『リバティ・バランスを射った男』(62年)が、フォードとウェインが築き上げてきた西部劇神話そのもの、ひいては映画そのものを鋭く批評し解体する作品だったとは、なんとも皮肉な話である。
 舞台は西部の田舎町。主人公は、生真面目な新米弁護士のランス(ジェームズ・ステュアート)と屈強な西部の男トム(ジョン・ウェイン)。まるで性格の異なる2人がいがみ合いながらも、ともに町の平和を脅かす悪漢リバティ・バランス(リー・マーヴィン)に立ち向かう。プロット自体は王道中の王道だ。そしてテーマとしては名作『シェーン』(53年)と同様、「西部開拓時代の終焉」である。「この町の正義のためには銃が必要だ」と主張するトムと、「アメリカは武力ではなく法律によって正義を為す近代国家へと変わっていかなければならない」と銃による決闘を拒否するランス。西部の掟の体現者と、法の体現者。両者の姿が分かりやすく対比される。リバティ・バランスとの決闘が思わぬ展開をみせたことで、法の体現者ランスは副大統領候補にまで登り詰め、西部の掟の体現者トムは田舎の牧場主に落ち着く。西部開拓時代は終焉を迎え、銃と暴力によって正義を証明する勇ましいヒーローは過去の存在となるのだ。
 それにしても、無敵で不死身の西部のヒーローであったはずのジョン・ウェインが落ちぶれていく姿には胸が締め付けられる。フォードとウェインの不仲を踏まえ本作を鑑賞していると、まるでフォードがウェインを諭しているかのように見えてくる。「俺たちの時代は終わったんだよ」と。本作を最後に、フォードはストレートな西部劇の制作を卒業する。後にフォードが監督する『シャイアン』(64年)は先住民の悲劇についての物語、『荒野の女たち』(65年)は中国とモンゴルの国境を舞台とした亜流西部劇だった。
 根っからのタカ派として知られるウェインは「西部開拓時代の終焉」を一身に背負うトムというキャラクターについて、「面白さの欠片もない退屈なキャラクターだ」と終始不満を漏らしていたという。しかし、後にウェインは考え方を変えていくこととなる。1964年に胃癌を宣告され、治療に伴う身体機能の喪失により片足を失ったのだ。この時、ウェインは自らの時代の終焉を悟ったのかもしれない。闘病生活を経て俳優活動を再開したウェインは、ついに『勇気ある追跡』(69年)で念願のアカデミー最優秀主演男優賞を受賞する。ウェイン演じるルースターは、飲んだくれの粗野で乱暴な保安官。本作のトムと同様に、「西部開拓時代の終焉」を体現するキャラクターだった。かつてフォードが課した役割を、ようやくウェインは引き受けたのである。
 興味深いことに、実は本作はストレートに「西部開拓時代の終焉」を描いてはいない。リバティ・バランスとの決闘から25年後、思わぬ形でランスはその真実を知ることとなる。まさに'映画的'としか言いようのないトリックによって、西部劇神話が守られるのだ。しかし、あまりにも'映画的'なトリックゆえに、その真実はランスと観客しか知ることができない。映画という嘘の中でのみ、西部劇神話は生き続ける。残酷ながらも美しい物語の幕引きは、ウェインよりも先に西部劇神話の終焉を察したフォードによる、時代の流れへの最後の抵抗のように思えてならない。
 物事が見かけ通りとは限らない。伝説とは裏腹に、意外と事実はしょうもなかったりする。なんせハリウッドにおけるひとつの西部劇神話の終焉の理由が、実は老害ジジイと頑固ジジイの意地の張り合いだったりするのだ。しかし、少なくとも映画の中でなら、どこにカメラを置きどこに照明を当てるかで、物事の本質を塗り替えることができる。映画の終盤、リバティ・バランスとの決闘の真実を打ち明けようとするランスを、新聞記者が諭す。「ここは西部だぞ。伝説と事実があるのなら、伝説を語るべきだ」と。脆い事実のうえにこそ、勇ましい伝説は成り立つ。映画の中でなら、フォードとウェインの友情だって永遠かもしれない。
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