タケオ

フランケンシュタインの花嫁のタケオのレビュー・感想・評価

4.5
 本作『フランケンシュタインの花嫁』(35年)は、前作『フランケンシュタイン』(31年)の直後から始まる。「少女を殺した罪」で松明を持った村人たちに追い詰められ、風車小屋ごと火を放たれたフランケンシュタインの怪物(ボリス•カーロフ)は、地下水道に落ちることで辛うじて生き延びていた。怪物は、再び村人たちに追い詰められていく。怪物はひたすら逃げる、逃げる、逃げ続ける。逃げなければ殺されるからだ。どこまで逃げても、怪物に安息は訪れない。怪物は自分の罪すら理解できないまま、安息の地を求めて逃げ続ける。
 前作は徹底した「無神論」が貫かれた作品だったが、本作は十字架をはじめとした「キリスト教」のモチーフが至るところに散りばめられており、鑑賞者は常に「神の存在」を意識させられる。しかし本作に、神が怪物へ救いの手を差し伸べたことを示唆する場面はどこにもない。ただただ怪物は、理不尽や不条理に晒され続けるだけである。何故神は怪物に救いの手を差し伸べないのか?理由は簡単だ、人間の実験によって生み出された怪物は「人間の子供」であり、「神の子供」ではないからだ。本作は「無神論」ではなく、「キリスト教」という概念が本質的に内包した排他的な側面にこそ物語の重点が置かれている。『フランケンシュタイン』シリーズが「神」という概念に対して懐疑的な視点を持った作品となっているのは、原作者メアリー•シェリーの出自に大きな理由がある。メアリーの父親は無政府主義(アナキズム)の先駆者として知られる無神論者のウィリアム•ゴドウィン、母親は『女性の権利と擁護』(1792年)を執筆したことで知らるフェミニズムの先駆者メアリ・ウルストンクラフト。保守的な思想とは対極的にある両親にメアリーは育てられたのだ。
 物語中盤、怪物は盲目の老人(O•P•ヘギー)に迎え入れられたことで、ようやくいっときの安息を得る。2人が交流する場面は本当に感動的だ。老人が言葉を教えると、ぎこちなくも怪物がそれを復唱する。老人がバイオリンを奏でると、怪物は満面の笑みを浮かべる。少しずつ言葉を理解していき、音楽の美しさにも関心を示しはじめた怪物は、最早ただの怪物ではない。自己認識を獲得した怪物は、遂に純粋な「個人」となったのだ。しかしそんな束の間の安息すらも、結局は松明を持った村人たちによって奪い去られてしまう。
 束の間の安息すら奪われた怪物に、マッド•サイエンティストのプレトリアス博士(アーネスト•セジガー)はある取引を持ちかける。「協力さえしてくれれば、お前のために花嫁を創造してやろう」と。正に悪魔の誘惑、禁断の果実を食べるようアダムを唆すヘビそのものだ。孤独と疎外感に耐えきれず、ついに怪物はプレトリアス博士に協力してしまう。フランケンシュタイン博士(コリン•クライヴ)の婚約者エリザベス(ヴァレリー•ホブソン)を誘拐し、彼に「花嫁」の創造を迫る2人。そこから先の展開は、あまりにも切なく悲劇的だ。
 人間にも神にも見捨てられ、遂に安息すらも得ることができなかった哀れな怪物の姿には涙を禁じ得ない。しかし怪物は、理不尽かつ不条理な人生を全うした。傷つき苦しみながらも、それでも生という名の拷問を耐え抜いた。最後の最後で怪物がとったある行動、それこそ正に「生きるとは何か?」という究極の疑問に対する答えであり、生という名の拷問に対するささやかな勝利だったのではないだろうか。生きるとはどこまでも過酷なことではあるが、全く無価値なものでもない。何に意味を見出し、そして何のために生きるのか、その全てを決めるのは自分自身だ。神だろうが親だろうがなんだろうが、他の誰にも決めさせてはならない。フランケンシュタインの怪物は、そんな答えを静かに教えてくれる真に純粋で美しき存在なのだ。

我々の知る限り
人間の生存の唯一の目的は
単に存在する事の暗黒に
意味の光を灯すことである

『記憶、夢、反射』(61年)
カール・グスタフ・ユング
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