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MAY -メイ-のhorahukiのレビュー・感想・評価

MAY -メイ-(2002年製作の映画)
3.7
記録です。

孤独のもとに育った主人公が、自分を満たしてくれるような「ともだち」を作ろうとする『フランケンシュタイン』フォロワーのサイコホラー。他者との繋がりを視覚と触覚に重点を置いて捉えており、それが最終的には視覚ではなく触覚に行き着くことになる。ママから貰ったスーザンは「触ってはならない友達」としてメイの前に君臨し続け、斜視による眼帯がそこに相まって「見る」ことに恐らく固執していき、また触れられないスーザン(友達)という存在や他者との物理的距離から、「手」や視覚障害者施設での「触る」ことに傾いていったのではないかと思われる。ママから与えられた「触らずに見るだけの友達」をガラスケースを割ることで打ち破り、「見て触る(触られる)友達」という自身固有(ママ譲りではない)の友達像を獲得するという、視覚・触覚の2つの観点から親離れを描くという性質も持った映画となっている。

そしてアダムの手に注目する視線は親離れだけでなく初回から性的欲望を連想させ、言い間違いや慌てた時の行動や刺す・刺される(自己を刺してから同僚の女子を刺す順番も含めて)等にフロイト的な表現が見られ、アダムの映画へのリアクションとその後の行動的に口唇期的発想がメイの中には残っているようにも思われる。つまりは親離れできてない自分をも表現しているわけで、それはスーザンという親の呪縛の象徴でもあるものから指示されたということも意図を込めているのでしょう。

しかし、やたらと「完璧」を求め続ける発想は、プロローグでのママの発言から考えてもママ譲りのもの。つまりママから脱却し自己固有の存在になろうと試みたメイは最後までママから脱することは出来なかったわけで、だからこそ退廃的で牢獄のようなラストシーンでの演出に行き着いたのでしょう。それは、ある意味では生の欲動と死の欲動を共存させた「人間」を残酷方面にあり得ないほどのデフォルメを加えて現前させたとも言えるわけで、その相反する在り方自体にある種の普遍性を見るための映画なのかもしれないとは思った。地味にハロウィンホラー。


書き殴ってるだけなのでコメント等スルーしてください🙏
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