モクゾー

ダンサー・イン・ザ・ダークのモクゾーのネタバレレビュー・内容・結末

4.2

このレビューはネタバレを含みます

●「不敏≠不幸」について(長文)

この映画、好きなのでブルーレイを買って何度も見ているのだが、このタイトルを聞くと多くの人が"胸糞悪い"とか"後味が悪い"という評価になってしまって、寂しい。

もちろん、凄まじいほど主人公を追い込む悲劇的なストーリーだし、衝撃的なエンディングであることは事実なので、その気持ちはわかる。…というか、ラースフォントリアーのDVDボックスまで持っている私に言わせれば、監督の性格などを知れば知るほど、アレルギーを持たれやすい作風だということもわかる。(ことごとく役者が病んでしまうくらいなのだから)

ただし!!
ただし、この映画と真剣に向き合った時に見えてくるのは、表面的に感じられるかもしれない嫌悪感をはるかに超える、高尚な魂の物語だと信じている。

キャッチにも書いたが、この映画にアレルギー反応を起こす人は、主人公エルマを"不敏だから、不幸だ"という前提で見ているのではなかろうか?

"不敏"というのは、上から目線で足りていない相手を憐れむこと。つまり、「主人公が可愛そうだわ!やめて差し上げて!」みたいな話。

"不敏"すなわち"不幸"だと思って映画をみるのって、つまり「相対的に、不敏ではない自分自身の幸せを再確認して、満足したいだけ」といえないだろうか?

もし、そういう前提の見方をしているならば、この映画は見ている我々は、エルマを取り巻くリアリティを持った周りのキャラクターの方に投影させられてしまうので、気持ちよくなれない。
つまり、安全地帯から見下すことができないので、目を背けたくなる。ヤダ味が目立ってしまい、嫌悪感を抱く…のだと思う。


でも、この映画に描かれる主人公は確かに不敏だが、それはすなわち"不幸"な存在なのだろうか?
彼女は、(文字通り)先の見えない生活の中で、一番成し遂げたかった息子への愛情を形で示すことができた。その瞬間に見せる穏やかな表情の美しさよ…
不敏ではない我々にだって、死ぬまでに感じることのできないような大きな"幸せ"を彼女は感じられているように見える。

「幸せ?冤罪で死刑になる人間が幸せなわけあるか、バカ!」と言われるかもしれないが、私は、人と比べた相対的な"幸せ"の話をしているのではない。エルマ自身が、命をかけるに値すると思ったこと(すなわち愛情)が達成されたという、不可侵で、絶対的な"幸せ"のことを、言っているのである。
その高尚な愛を見せられて、辛く苦い気持ちにもなれど、私は同時に愛おしいと思わざるをえないのだ。


もちろん、ビョークの演技や歌は神がかっているし、役者たちは素晴らしい。
映像は正直そんなに綺麗ではないのだが、その場に立ち会わされるようなリアリティで我々を引き込む。素晴らしいできだと思う。


軽く観られる映画ではない。
しかし、真剣に向き合えば、
それに応えてくれる映画である。
パロムドールをとったには、訳があるのだ。