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しとやかな獣のryosukeのレビュー・感想・評価

しとやかな獣(1962年製作の映画)
4.1
全カットがギチギチに作り込まれたレイアウトの凝り具合が凄い。引っ切りなしに詰め込まれた台詞もあって、この情報量はちょっと疲れるぐらい。黒沢清がぴあのインタビューで、エドワード・ヤンから得たものを語る文脈で、セット撮影中心の時代のような自由なカメラポジションが、狭い日本家屋でのロケ中心になってからは難しく、工夫をしている旨を語っていたが、本作はセット撮影でありながら黒沢、エドワード・ヤンの作法をより徹底したような具合になっている。カーテンの隙間、換気扇、郵便受けを通じて、あるいは窓の外の柵越しに、更に押入れ、棚の中から、と多種多様なタテの構図が駆使され、ほぼ一室が舞台となるにも関わらず、画のバリエーションが尽きることがない。ちょっと一部屋だけでどこまでバリエーションを生み出せるかの実験にも思える。
最近「パラサイト」が引き合いに出されているようだが、寄生的な反社会一家とその家族構成、四人がテーブルで酒盛りをする破滅の前の愉しげなひと時、階段の象徴的な使用など、なるほどかなり重なるものがある。ポン・ジュノは本作見てるのかな。
ただ、本作の登場人物は寄生先へと移動しない。彼らは家を動く必要もなく、引っ切りなしにカモとなる人物たちが部屋に現れ、まるで蜘蛛の巣に獲物が掛かっていくようであった。
インチキジャズシンガーのピノサク(小沢昭一)のギャグみたいな人物造形(何だったんだ?) 、両親の客のもてなしのわざとらしさ、高速で気の利いた風の台詞を繰り出す途切れない会話と、全体的にかなり嘘臭い作品ではある。全てが嘘塗れの一家とその生活を描くためにはこれで良いのかなとも思うが、どうもこの偽物具合が何となく生理的に合わない部分もある。ただ、画面構成がとにかく凄いので当然傑作であるとは思う。
母(山岡久乃)が、口を慎めだの下品なことを言うなだのと、あくまで良識的な母親像の薄皮は被ろうとする点、父(伊藤雄之助)も横領には反対なんだぞと留保する点など、(第三者がいないシーンでも)両親は建前を一応保持するのだが、これが不気味。これは子二人と違って世代的に開き直りきることが出来ないということだろうか。伊藤の台詞に、世間は戦後に大人になった世代は許してしまうところがあるが、戦前の者への世間の目は厳しいという旨のものがあるが、そのような状況の中で自然に身につけた防御手段が家族の前でも抜けないのだろうか。伊藤雄之助の演技はやっぱりインパクト大。
冒頭から台詞で埋め尽くされ騒がしかった本作だが、過去の極貧時代に話が至ると、彼らの闇を無音+マネキンのように停止する彼らのクローズアップでこれでもかと強調する。凄まじい外連でギリギリの印象もあるのだが、結果衝撃的な良い演出になっていると思う。
嘘みたいに真っ赤になった空をバックに、蕎麦を食べていた姉弟がテレビの音楽に合わせて踊り狂うシーンなど、元々低いリアリティラインが更に下がっていく。
若尾文子映画祭での鑑賞であったが、若尾も勿論魅力的。本作の若尾は「赤線地帯」の方のタイプで、太々しく他者を踏みつけにすることを厭わず、それでいて凛とした美しさのある人物だった。ついに完全に偽の抽象空間が現れる寒々しい階段を、本作の若尾は登り続けていくことが出来るだろうか。
蝋燭の光で飯を食うアメリカの金持ちについての会話の中に、蛍光灯になってから「照明に個性が無くなった」という台詞があるが、その瞬間に窓側から差し込む光に照らされた部分と、手前の人物を包む闇のはっきり二分されたコントラストによる、個性的な画作りを見せるのはメタ的で(川島雄三が(映画の?)照明技術に何か思うところがあったのかも)面白い。
船越英二は善良な人物として登場し、ギョロ目はやっぱり不気味だけど、曲者で出せばいいのになと思っていたら、最後にちゃんと見せ場があった。
それを受けて、若尾文子は今度は階段を降りていく。彼が自殺しても自分は大丈夫だと語っていたが、そもそも自殺はしないだろうという読みが外れている彼女には、更なる「読み違い」が待っており、階段を転げ落ちることになるのかもしれない。表面上穏やかな表情を見せており、まだ一番まともそうだった山岡久乃の「気付いてしまった」真顔が怖い。この時点での締めは上品で良いね。
ラストカットまでレイアウトの見事なロングショットを見せてくれる。常に団地を離れず進んできた本作において、ラストショットはその団地を遠くから眺める第三者的視点となるが、それは具体的な誰かか、あるいは超越者か、彼らに裁きを齎す者の目線かもしれない。
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