フラハティ

仮面/ペルソナのフラハティのレビュー・感想・評価

仮面/ペルソナ(1967年製作の映画)
4.4
本当の自分でありたい。
言葉など無意味。


何度鑑賞しても、未だに正解が導き出せない本作。
フォロワーさんのレビューのおかげで、久しぶりのチャレンジに踏み切る。
表面的な自分と、本当の自分。
社会で適応し、存在していくためにはあるがままの姿だけでは苦しい。
だからもう一人の自分を生み出そう。

幾度となく語り合い、価値観を共有し、本当の姿を知ったと思っても、実際は雲のようにつかめない存在。
内的な情景を映像として刻み込む。
本来存在する自分の認識はもっと感情の奥底に存在し、言葉として表現することにも限界が生じる。
実際は自分自身でも本当の自分のことは理解できていないのかもしれない。

人は、完全に自分自身を無にすることは不可能という。
頭のなかで脈絡のない言葉や、繋がらない会話を続けていて、それは表面に出ることはない。
この存在がアルマではないか。
黙って聞き続けるのはエリザベートだ。


本作が製作される1960年代には、ベトナム戦争が勃発。
本作でも印象的な戦争関係の描写はこういった背景が関係している。
世界平和のための戦争とも言われることもあるが、実際には国の利益のためであり、この部分にも表の面と裏の面が存在する。
仮面を付けているのは、個人間という狭い世界だけではなく国という大きなものも身に付けているということ。
戦争から帰還した兵士たちが苦しんだという例も多く、正義のために戦っていたはずなのに、帰還し、無意味だったと知った瞬間何を思うのだろう。




ここからはネタバレなんだろうけど、本作に関してはネタバレは正直関係ないような気がするので、このままで。

本作はどのようにも解釈できるから難しいし、楽しい。
本作はベルイマン自身の映画であるような気がする。
映画であるっていうことを強調した作風であるのは、映画を芸術としてどのように価値のあるものとして存在させるかに苦悩しているよう。
冒頭から出ていた男の子はベルイマン自身であり、胎内にいる自身の投影か、それとも僕らと同じように一線を引いた場所にいる観客としての視点なのかも。

【ベルイマンと母親の過去】
本作の主人公である女性は、ベルイマンの母親の可能性もある。
もしくは母親の姿と、自分をごちゃ混ぜにしたものかも。
二人の会話から浮き彫りになる、子どもに対する本心。
これもベルイマンが母親に愛情を注がれていなかった理由を自分なりに解釈したという可能性がある。
実際ベルイマンと母親の関係がどうであるのかはわからないので、この解釈はほぼ勝手な推測。
二人の存在は、自身の女性関係の悩みや、映画監督であり、芸術家としての存在意義に対する悩みともとれるね。

【すべてベルイマンの内面の具現化】
本作に登場したすべての人物がベルイマンの中にいる人格を分けて表現しているのかなとも思ったり。
アルマとエリザベートははっきりとわかるように内面の具現化。
女医は神からの啓司のように、内面をすべて理解し救済の手助けをする、無意識ですべてを理解している自身の絶対的価値観。
夫(夫婦自体?)はベルイマン自身が、夫婦としてどう接していたのかの表現。
つまりは登場する人物が全て自分の人格。
仮面のイメージとしては表裏の二面性だが、何枚も重ねてつけているってイメージもわく。
語っていることはすべて自分のことなので、何もかもをわかっている。
僕のなかでは、この出来事自体が自身との対話で、映画という枠の中にあるという表現がわかりやすいことから、自己を巡る冒険であり、実際には一人の人間による(今回であればベルイマン)、内面との会話を映像化したものという解釈。

この二つの解釈が頭を廻っているけれど、謎も多いからよくわかんないね。笑


すべてがひとつに集約される。
影が光に生まれ変わる。


言葉で私のすべてを伝えられないから、映画という媒体で表現する。
「何もかもが嘘と芝居」ならば、本作で語られているのはきっと真実であると思う。
本作の冒頭からの脈絡のない映像の連続は観るものを惹き付ける。
そして不穏な世界観や音楽は、人間の心の奥深さや不安定さを強調しているようにも思える。

言葉で語れないから映画として残したわけで、こういったことを言葉で綴っても意味がないのかもしれない。
この映画の正解の解釈はない。
人それぞれの解釈が、この映画の価値をより高めている気がする。
フラハティ

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