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セントラル・ステーションのotomisanのレビュー・感想・評価

セントラル・ステーション(1998年製作の映画)
4.1
 意外と言っちゃ語弊もあろうが、渡る世間に鬼がいない感じのブラジルだ。なんだか、ドーラおばさんが一番ヒトが悪そうじゃないかと笑ってしまった。

 もちろん、浮浪児の預かりのフリをした臓器売買屋もいるし、かっぱらいにも現場判断で鉛弾なんて場面もあるけれど、日本で泉ピン子、アメリカならグロリヤへお見舞いを食らわす鬼どものようなのは出てこない。
 しかしその分、母なし子になったジョズエの父親の行方知れずがこの物語を引っ張る力になるのだが、こちら、もともとドーラおばさんの強欲さえなければ大した話ではないのかもしれない。
 だいたい、いかれたテレビを買い替える資金に一度は引き取ったジョズエを人に売り飛ばそうなど普通しないだろう。友人にもなじられて翌日ジョズエを取り戻しに走るのだが金を返すでもなく、別の旨い話で業者の気を惹く策略はサギ同然である。
 どっちが悪いかといえばヤミの臓器売買屋の浮浪児預かりの方が余程悪いが、その上前を撥ねるならグロリヤ並みの誅求が待っていそうな気がするが、そこがポルトガル系の大らかさなのかも知れない。ローマ帝国にルネッサンス、ムッソリーニもありなイタリア系はとかく世知辛い。

 高飛びついでにジョズエも田舎の父親に押し付けようと町を出れば、今度はジョズエが付きまとって離れない。そりゃあ、会った事もなく顔も知らない父親を捜しにどこにあるか知れない田舎までゆくのならこんな人でなしオバサンでも居ないよりはましだろう。
 ところが道中資金が尽きるわ父親の所在は分からぬわ、見知らぬ隣人の施しに与るわ、万引きで食い繋ぐやら始まるが、ジョズエの万引きを咎める傍らオバサン自身も輪をかけた万引きで、しかも見つかって咎められるのを、知り合ったばかりのトラックおじさんに庇ってもらっても悪びれる様子も見せずしゃあしゃあ切り抜けるザマには頭を抱えてしまう。
 しかし、このおじさんに懸想してしまうおばさんの真っ赤なリップスティックが大空振りに終わるのが、この人情噺の転落マックスだろう。こうして悪行おばさんにバチの総当たりが出て、これで運気が変わるのかと思うとそうは問屋が卸さない。

 そもそも、代書屋が第2位都市リオでも欠かせないくらいだから田舎に行っても事情が変わるはずがないので、おばさんはどこに行っても食いっぱぐれなかったのだ。
 ただし、都会で頼まれる代書の内容にいちいち触れて、こんな手紙を出して、話が通じてしまったら、しょうもな気な男に口説かれてエエ金蔓やろとか、おおかた大酒呑みの愚図亭主とヨリ戻そうゆうのだろが、ドないすんねんなどなど、人生を棒に振るような手紙を出すな!というような事、これもおばさんの勝手な想像なんだが、山ほどあるわけで、おばさんもこの特殊技能にちっとも重きを感じていなかったのだ。
 ところがこのどことも知れない田舎の聖母祭りの夜店で臨時開業したら、どうだろう、浮ついた話が一つも聞かれさない?それもまた思い込み。都会で代書した手紙の多くを持ち帰っては投函しない/するの選り分けをやって来て、しない分切手代をちょろまかして儲けていたおばさんではあるが、夜店一晩で大儲けして、ショバを仕切るやくざ屋さんなんかもいなくて済んだし、切手代が浮かなくても損した気分にはならない、あるいは、代書の勤め甲斐を覚えるのかもしれない。
 これで生きる世界が変わって見えるほどウブじゃあないだろうが、流れ流れてやっと見つけたジョズエの父親の家で腹違いのジョズエの兄二人が持ち出した父親からの半年も前の手紙、今はもう居ない妻でジョズエの母親あてのそれ、どうやらおばさんが書いたものではなさそうだが、もし戻って来ていたらと、妻に詫びる言葉と酒も断って真面目に働くからという。兄弟への気遣いのくだりにジョズエの名前も云い添えるのは、おばさんも父親では苦労人だから。山ほど書いて山ほど破り捨ててきたおばさんだが、これなら捨てられないだろう。

 けったいにも、ジョズエの本名も正体も兄弟に明かさないまま、おばさんは黙って一家の前から消えてしまう。自分がジョズエと一家を仲立ちする必要もない事を理解して、破らずに措いたジョズエの母の最後の手紙を亭主からの手紙と並べて消えてしまう。そのままリオに帰るのか、それともトラックおじさんとの再会に人生再生を賭けるのか、それはもう余所の話だが。
 おばさんの父親もそうだったし、ジョズエの父もどこかに何かを求めて消えてしまう。トラックおじさんはおばさんに愛想をつかして消えてしまったが、おばさんは一家に安心して消えてゆく。消えてもどこかで何かして生きて行ける開発絶頂期(それはグローバルには破壊と無分別、無反省の絶頂でもあった)にして、文盲、同時に無学という未開発もたんとあるブラジルの、稼ぎ口ならどこにも幾らでもある騒々し気な人間風景を活写していると窺われる。しかし、その明る気な消息不明の中にも、父親のようにあらたまって帰宅を約束する者も、母親のように訃報も伝えられない者も現れる。
 これは日本ならオリンピックの時分からはっきりしてくる、もっといい稼ぎの口があると誘われたり、家族を残し出稼ぎに行ったきり消息が絶えたり、先祖伝来の田畑も捨てて行方も告げず家計の担い手や親子一家が収入のため、消費のため、あるいは元居た場所、地縁血縁、社会、借金、差別から逃げるために蒸発してしまうなんて時代に相当する。それを「蒸発」と呼び、不気味にも家族を、蒸発の当人の心も歪ませる社会の闇と冷たく評された事を思えば、ブラジル人兄弟3人の下した、父親は帰ってくるとする事への、次男は「ない」といい、長男は「かならず」と思いジョズエは「いつかは」と言うこの二人までという辛うじて過半数の微妙さが見せる希望に縋る姿には複雑な感覚が拭えない。

 消えていった父親の背中をそんな風に思い返すように、子どもは平生から働く大人の背中を信じて成長したのだ。その点、日伯に違いはないのではないか?だが、このおばさんの言うように父親が走らせる機関車の運転席に父の膝に座って汽笛を鳴らしながら、父親が日々迎える世界の速度感に子どもだったおばさんは歓喜した。同じように、ジョズエもまたトラックおじさんの膝の上でこれよりもっと大きな車を走らせる夢を見たのだ。これが、どれほど素直で豊かな子どもと大人の関係であるか考えるまでもないだろう。
 対して、その背中を信じるとするのは、背中なりともずっと見ていたい、ずっとそこにいると「信じる」と宣言しなければ自分が心許ないという事だ。いままた父親が改心して帰りの道すがら稼ぎ稼ぎ間もなく戻ってくるという。日本人の耳にはなんだか聞くだに危なっかし気だがブラジル人の大らかさで、それだけの頼りでも十分父親の膝の上で大船に乗った気持ちが甦るんじゃないか。