オシリー

ファイト・クラブのオシリーのレビュー・感想・評価

ファイト・クラブ(1999年製作の映画)
5.0
おれたちはまずなにもかもぶっ壊さないといけない。見栄や見掛け倒し、表面だけの関係、数字、社会的価値、名前、神、そして自分がつくりだしたものでさえ。元々、そんなものには価値なんてない。気づかぬうちに纏っていた、あるいは纏わされていた権威を全部脱ぎ捨てる。そんなものはゴミだって吐き捨ててやる。自分がつくりだしたものでさえ、自分を縛るくらいならぶっ壊す。どうせ最後には全部なくなるんだから。自分にとっての本当を見極めるためには、ひとは落ちることが出来る一番深いところまで、ドン底まで落ちていかねばならない。そこが自分のふるさとであることを知らねばならない。それには強烈な痛みが伴う。当たり前だ。そもそも生きることは痛いんだ。それを見ないふりをして、生温いマスターベーションを見せ合うことを、コミュニケーションとは言わない。なんの苦痛も伴わない、即物的な消費を生きることとは言わない。ひととひとが本当に繋がろうとするなら、そこには痛みが生じる。暴力は根源的なコミュニケーションだ。生温いマスターベーションの見せ合いに慣れきった病人たちにとって、ファイトクラブは最高の処方箋。そして世界がいかに空虚なハリボテで出来ているか気づいたら、次はそれを全部ぶっ壊してやろう。なんてことはない、家にあるもので爆弾はつくれるんだから。目的を達成するためには、そのための自分を演じることも大切だ。理想の自分を演じていくうちに、それが本当の自分になる。だが忘れてはならない、それはただの手段であって目的は別にある。理想の自分なんてものは、目的のために邪魔ならすぐに捨て去ってやることだ。そうすればおれたちは自由だ。なにが天罰だ。なにが贖罪だ。おれたちは神の望まない子、ざまあみろ!
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