朱音

ハイテンションの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

ハイテンション(2003年製作の映画)
2.8

このレビューはネタバレを含みます

アレクサンドル・バスティロ、ジュリアン・モーリー監督の『座敷女』(2007年)、パスカル・ロジェ監督の『マーターズ』(2008年)、サヴィエ・ジャン監督の『フロンティア』(2008年)、そして本作、アレクサンドル・アジャ監督による『ハイテンション』(2004年)、これらフランスの若手俊英監督たちによる作品群はマニアの間で4大フレンチ・ホラーと呼ばれている。

ホラー映画、とりわけスプラッターやトーチャーものと言われる類の作品群は年々先鋭化していっている。人体破壊や胸糞描写、殺人嗜好的な意匠をどんどん突き詰めてゆくと、行き着く果てはマニアな方向に先細ってゆくだけだろう。そういう意味でもカルトなのであり、観る人を徹底してふるいにかける。それもいいのである。
そして、その先端をゆくのが先に挙げた4大フレンチ・ホラーなのだ。

だが本作、『ハイテンション』はその中でも比較的鑑賞しやすい作品であると思う。従来のホラー型に近く、物語もはっきりしているからだ。
映像によるストーリーテリングのセンスも非常に高く、殺人鬼との息詰まる攻防、レズビアンとして秘めたる想いに煩わされるマリー、そしてラストのオチに至るまで、ディテールの積み重ね方ひとつで、観客の緊迫感を手玉にとってみせる手腕には驚いた。


この映画のオチをどう見なすか、ノレるか、ノレないか、によって評価が大きく別れる。

全ては妄想だった。
この映画の冒頭は、傷だらけの背中で「誰にも邪魔させない……」と繰り返すマリーの姿から始まる。そして録音が開始される……。

つまり、本編の部分は"マリーの供述"という事になる。そう、この物語は主人公であり、精神に異常をきたしている"マリーが語った"殺人事件なのだ。

森の中を全身傷だらけ、血塗れで彷徨い歩くマリー、まるで何かに追われているようなその様には鬼気迫るものがある。夢から醒めたとき、彼女は言う、「私が私から逃げている」夢だと。
だが、映画をラストまで観てみると、実際に森の中を逃げていたのは親友のアレックスの方で、マリーはアレックスの家族を殺害した殺人鬼として彼女を追い掛ける側だ。

精神異常者であるマリーは、アレックスの家族を殺し、アレックスを誘拐する。そして、警察に捕まったマリーは、精神病院で隔離され、「自分は殺人鬼からアレックスを救おうとした」という妄想をしていた。その"妄想"は、マリーの中では"真実"。現実ではマリーが全ての殺人・誘拐を行ったのだが、マリーの記憶の中では、マリーがアレックスを殺人鬼から救おうとしたのだ。


では、あの殺人鬼は一体誰なのか。
登場してすぐのシーンで女性の頭を投げ捨てたり、アレックスの家族を惨殺したり。異状性癖を抱えた猟奇的な人物である。
だが、あの男は、マリーが創り出した妄想の産物であり、現実には存在しない人物だ。

「マリーがアレックスを救おうとした」という妄想のストーリーを演出し、完成させるために生み出された、マリーの記憶の中だけに存在する殺人鬼。

あの男が存在しないと仮定すると、たしかに色々と辻褄が合ってくる。なぜマリーだけがあの殺人鬼に見つからなかったのか、なぜマリーが手に入れた銃の弾を、殺人鬼は予め抜いておくことが出来たのか。
あの殺人鬼はマリーが妄想の中で作り上げていたのだから、マリーにとって都合が良いように動くのは当然の事だ。

マリーが精神病院で何度も口にしていた言葉「誰にも邪魔させない」という台詞は「アレックスは誰にも渡さない。私とアレックスの関係を誰にも邪魔させない」という意味だろう。

最初に二人が車でアレックスの実家まで行くシーンの途中、殺人鬼が殺した女の頭を股間に押し付けてるショッキングなシーンがチラっと出てくるが、これはマリーが目を閉じているアレックスをチラチラと見てるときに行われたこと。しかもこの女性の顔は少しアレックスに雰囲気が似ている。

そして殺人鬼の乗るトラックが、アレックスの家の前に着け、やがて屋内に侵入してくる場面は、ちょうどマリーが自慰行為に耽っている最中なのだ。自慰行為を始める前に一度マリーが煙草を吸うために屋外に出ているというのもポイントが高い。ここで妄想と現実とが分岐したと考えて良いだろう。
惨殺された母親が最後に残した言葉「なぜなの」はマリーの行動に直接疑問を投げかけたものだし、先述した銃も、しっかり父親の部屋の壁にかけてある。


思い返せばアレなこと。
だが、その妄想には一部現実も織り交ぜられている。警察が見た監視カメラの映像に、マリーが殺人を行う様子が映っていたシーン。
マリーに助けられたアレックスが包丁を握りしめながら「触らないで!」と叫ぶ場面と、その後のアレックスが逃げるシーンなどがある。
これらのシーンは、現実とマリーの妄想とが混ざったシーンになっている。客観的にみて、映画の整合性という意味においては必要なシーンだと思うが、決して"実際に起こった真実"を振り返っているのではなく、彼女が"どう認識しているのか"を観ていたはずの私たちにとっては混乱を招くシーンだ。

この映画の評価が芳しくない大きな理由は、その「二重人格(本人)でしたオチは良いとして、だったらアレはなんなのだ?」という要素が多すぎる点だ。

だが尤も、映画中で"矛盾している部分"は"マリーの供述が矛盾している"という事であり、彼女自身が「殺人鬼がいた。アレックスがトラックに載せられた。自分は給油所で車を手に入れて追った。必死に戦って彼女を助け出した」と本気で思い込んでいる。そう供述しているという事。それを映像化したのが本編なので、ある意味なんでもありなのかもしれない。

こういうオチの映画は、最後に種明かしをした時に、どれだけ内容のつじつまが合っているか、が大事になってくる。矛盾点があると一気に萎えてしまうものだ。
おかしな部分は全て"妄想だった"で納得するのは難しく、もはや"夢オチ"に近い反則技だと思う。
朱音

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