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TOMORROW 明日のyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

TOMORROW 明日(1988年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

誰もが明日がやってくるのを信じて疑わない。それは当たり前のことだ。
明日の仕事の予定、明日の食事、明日の天候…など、明日のことを考えない日などない。
それは今、この瞬間でも頭の片隅から離れない。歌の文句ではないが「きっと明日は今日よりいい日になる」と信じたいからだ。

何の前知識も無く、青年期に初めてこの映画をTV放送で見た時、大変衝撃を受けた。それはその「視点」のせいである。

この映画は、まず冒頭に詩が引用される。
「人間は父や母のように霧のごとくに消されてしまってよいのだろうか 」
どういう意味なのか、当時の私は分からなかった。
誰かが蒸発する話なのか?と勘違いした思い出がある。
思えば、この映画を見たのは8月のこの時期だった。

映画は、蝉を捕まえようとする少年から始まる。
その風景、その衣装、その言葉から、少しずつ時代設定が明らかになっていく。

物語が進むに連れ、おそらく戦争中であること、言葉から九州のどこかであることがわかってくる。

映画は市井の庶民の暮らしを淡々と描く。

子供の誕生や新婚の夫婦。
徴兵で離れ離れになるカップル。
恋人を待ちわびる妊娠3ヶ月の女性。
捕虜のために奮闘する青年。
青年の相手をする心優しき娼婦。

戦時中ではあるが、ささやかに、そして逞しくも明るく生きようとする人たちの暮らしが描かれる。

そこに戦争の影や惨状は直接的には描かれない。
通常の戦争映画で描かれる、命が脅かされるサスペンスも、戦闘のスペクタクルも、戦死する際の残酷描写も、焼け野原の市街地や怪我に呻く人々も、死体の山もない。

電燈の周りを飛ぶ虫ケラ。
土砂降りの雨。
その後に空に輝く虹。
青空の下で風になびく洗濯物。
鮮やかな花や小鳥のさえずり。

画面に映るのは今日1日の美しさである。
同じように劇中では、明日への希望がセリフとして語られる。

明日、列車はどのへんを走っているのか。明日はどこで待ち合わせしましょう。
言えなければ明日でも明後日でもいい。
明日も明後日も、そしてずっとよろしくです、などというセリフが出てくる。

逆に、思い出や、いつかの日のことなども登場人物の過去が語られる…。




誰もが今死ぬことなど想像もしない。
映像と物語は見る者に死など想像もさせない。

それ故に、突然の結末に胸を締め付けられる。
映像が美しければ美しいほど締め付けられる。
風景も美しく、出演している女優陣も魅力的に輝いているだけに。

この映画は1945年8月9日に、物語の舞台である長崎に原爆が落とされる実写シーンで突然に終わります。

その前日の長崎の庶民の生活ぶりを映画は丹念に描いたのです。
翌日午前11時2分に原爆のきのこ雲がゆっくりと描き出されて、そのまま映画は終わる…。

その後の惨状場面はありません…。
ラストシーンは、この瞬間、多くの人々の人生が奪い去られたという強い憤りとともに、瞼に焼き付けられます。

突然の、今でいう、あまりの「バッドエンド」に、当時の私は衝撃のあまり、声すら出なかった。

初めて見たのは、日中の午前中のTV放送だったため、鑑賞後に外に出て、映画と同じ入道雲が立ち上る青空を眺めて、現在の平和に感謝すらしました。

文法でいう未然形?倒置法?というべき特異なつくりかたと、反戦への新たな表現方法は、当時注目され、多くの賞を受けたそうです。

調べるとキネマ旬報では邦画部門2位、監督賞と主演女優賞を受賞している。

その他多くの賞を受賞しているのは、視覚的に分かる反戦映画だからではなく、反戦の思いを伝えることに成功しているから。

すなわち、軍人や政治家の視点ではなく、思想的な背景を描くわけでもなく、長崎の町に生きる、多人数の人々の日常を追っているだけなのです。

主演はいても、多くの人物が登場する。
ところが、登場人物たちは、明日死ぬことなど夢にも知らない。

ごく普通の日常、そこには、戦時中ということもあり質素な結婚披露があり、出産があり、別れや悲しみもあるが…
それらが、翌日には一挙に無に帰してしまう!

そうした、庶民個人個人の未来はもちろん、過去の歴史や思い出までが、一瞬にして無に帰してしまう。

「欲しがりません勝つまでは」
「ぜいたくは敵だ!」
国民総決起と国を挙げて、太平洋戦争をしている昭和20年。
この時期を舞台にしたこの映画のなかに、反戦的な言葉はあるはずがない。

沖縄では今こうなっている。
あの家に赤紙が来た。
食べ物の配給が心配だなどと、戦争はこの段階でも依然続いているし「お国のためなら」という想いがある。

日常を丹念に描き続け、誰もが無意識に迎えるはずの明日が、あまりに突然無に帰す。

後の惨状を映さないこの結末は、むやみに反戦を言葉やテーマとして全面に掲げるより、効果的であったし、胸を打ちました。


想像してみてほしい。
貴方にも私にも来るべき明日がない。
何も知らされず、明日が奪われる…。
その理不尽さは、今現在も言葉で表現しようがない。

この映画では、当時の世相や町や家のようす、生活用品などもなかなか正確な再現を見ることができる。

長崎市内でのロケはあったが、当時をそのまま残すところはあるはずもない。
当時の街並みやセットなど美術スタッフの苦労が偲ばれる。

当時の日用品を整えるのは大変だったはずだ。座敷、台所、縁側、食器棚、ちゃぶ台、弁当箱、蚊帳など、懐かしいものばかりだ。これらが見事に再現されている。

日常を丹念につないでいくので、物語の中盤、多少の間延び感は否めない。

(もし、そう感じることが監督の狙いだとすれば、凄いことだ。
中盤はホームドラマと化し、戦争のことなどすっかり忘れてしまう。
その分結末の衝撃が大きくなることを計算していたならば。)

しかし、そこはベテラン俳優たちの演技や間合いのとり方でクリアされている。

今晩には出産が予定されるツル子(桃井かおり)が横になっていると、そこに母親(馬淵晴子)が弁当箱に何か持ってくる。

蓋を開けて仏壇に供えるので観客にはそれが貴重品だとわかる。
ツル子が何かと問うので、母が蓋を取ると「わ~、あずきだぁ」と感動する。
そしてひと粒だけつまみ食いをする。
どこで手に入れたの?と聞くと、あなたのお守り袋を開けたのよ、という母。

このころの食糧事情や砂糖の配給事情などを考えると、大変感動的なシーンです。

俳優にとって、日常の所作を演技するほど難しいものはないという。
桃井かおりの丁寧で抑えた演技もよかったが、やはり実際に戦争を知っている馬渕晴子の演技と所作はすばらしいと思う。

今見ると、南果歩、仙道敦子の初々しさも大変可愛らしい。

(私は写真館の主人、田中邦衛さんが初見の時から印象に残っています。
結婚式の写真を取るだけで、格別なことは何もしてないのに。笑)


夏は終戦記念日があることから、やはり戦争を題材にした映画が見たくなります。

今は亡き自分の両親が戦争体験者だったので、夏はお盆に戦争の話をニュースを見ながら良くしていたのが記憶に残っています。

もうすぐお盆ですが、先祖の霊だけではなく、敗戦国として犠牲になった人々への供養の気持ちを忘れてはいけないと思います。

皆さんは戦争映画と聞いて、何が思い浮かぶでしょう?
私が真っ先に思い浮かぶのは、中学の時に社会の授業で見た「にんげんをかえせ」です。
(Filmarksでは検索しても見つからないのですが、どなたかご存知でしょうか?)

30年以上経った今でも、あのドキュメンタリーに映る広島・長崎の惨状の記録映像は今でも脳裏にこびりついています。

一瞬にして多くの人の人生を消し去る兵器が核兵器です。
アメリカ映画で時折、軽んじられる描写に少し嫌悪感を抱くことがありますが…。
戦後の日本がこの兵器を日本に対して使った国の核の傘に守られてきた、というのはなんと皮肉なことなのだろうか、と思います。

この映画はラストの1分までは「生きることの素晴らしさ」を見事に描いて、観ている側の心を幸せと希望で溢れさせてくれます。
ラスト1分までは…。

戦争の惨状を描き、反戦を訴える数多の映画よりも深く心に残る作品であることは間違いありません。


余談ですが、この映画、あまり知られていないのも事実。
「TOMORROW/明日」「美しい夏キリシマ」「父と暮せば」が黒木和雄監督の「戦争レクイエム3部作」と呼ばれていますが、私の住む東北の田舎では、なかなかレンタルショップで揃っているところを見かけません。

ずっとまた見たいと思っていたのですが、仕事の外回り中、猛暑から逃れるべく入った小さな町の図書館で偶然にも発見しました。
(レンタルショップも名作映画を置く図書館のような存在であってほしい。)

夏のこの時期に見ることが出来たのは、何かのお導きかもしれません。
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