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蟻の街のマリア
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『蟻の街のマリア』に投稿された感想・評価

戦後東京の屑屋の集落 “蟻の街”で奉仕活動に身を注ぎ28歳で早逝したクリスチャン北原玲子(さとこ)の伝記映画。監督は「煙突の見える場所」(1953)の五所平之助。美輪明宏(当時23歳)がスラムの青年役で出演しギター弾き語りを披露。

1950年、隅田川沿いのバタ部落 “蟻の街”を、裕福な家庭に育った玲子(千之赫子)という娘が訪れる。クリスチャンとして貧しい人々の役に立ちたいと考えたのだ。蟻の街のリーダー松木は、彼女を利用して蟻の街を新聞に取り上げてもらおうと計画する。この街は都庁から追立てを喰っていて、存続のためには世論の同情が必要だった。怜子は集落の子どもたちに勉強を教え、自らバタヤ車で資金を集め箱根遠足にも連れて行く。新聞では彼女の活動が紹介され、集落の存続にも光が見えてきた。しかしやがて過労が重なり。。。

タイトルに魅かれて前から観たかった一本。思っていたよりも美談一辺倒ではなく興味深い味わいだった。信仰に殉じる主人公の人生と並行して、彼女の善行の力を借りて貧民の共同体を維持しようとする社会運動的な物語が描かれている。戦前戦時中に反国家的として抑圧されたキリスト教と社会主義が、立場を回復した戦後間もなくの時代精神が反映されているように感じた。

バタヤ集落のセットは作りこまれていて他の邦画では見られない風景を再現していた。その中で若き美輪明宏が弾き語るオープニングは魅力的。箱根遠足のシークエンスで丘の上で遊ぶ玲子と子供たちの姿は「サウンド・オブ・ミュージック」(1965)を先取りしていた。

その一方で、病に倒れた玲子に「あなたの『蟻の街のマリア』という女優の役は終わった」と辛い事を云う松木。あげくの果てに都庁が街の存続要望を受け入れない場合は「玲子さんに死んでもらうつもりです。都庁の前でハンガーストライキをやってもらうんですよ」「その時は僕も死ぬつもりです」と過激な事を言い放つ。かなりクセの強いシナリオだが、松木の存在が本作をキリスト教映画に終わらせない多層性をもたらしている。

本作は北原玲子が亡くなった1958年に制作公開、その後イタリアでも上映された。ローマ法王庁(バチカン)は彼女の聖性を称え「尊者」として認定した。

※主演の千之赫子は大島渚監督のデビュー作「愛と希望の街」(1959)で鳩を売る少年の担任教師を演じた。
☑️『蟻の街のマリア』(3.6)及び『欲』(3.0)▶️▶️

五所の系譜で言い忘れたが、ヘンテコな世界⋅価値観が尋常でもないというのがある。そもそも全作中の代表作の『煙突の~』からして、おかしな常識感覚の世界だが、’50年代後半の作品群はひとつ突出している。名作『黄色いカラス』が長谷部の本として有名だが、その他にも五所と組んで何本かをやってた認識がはっきりなかった。このカリエールを上回る脚本界のシュルレアリストは、高名な今村⋅熊井⋅崑らの他、五所とも名コンビだったのだ。
『蟻の~』も、妙にリアルに汚く温もりある、バタ屋部落のセットに入ってくカメラ、そこへ脇からいきなりやって来て特に、学校や見聞旅にも満足に行けず、学校に行けた日には馬鹿に⋅差別普通の、子供たちへの愛の注ぎ⋅意識引上げをすべく、中に入り込む邪念のない、20代初めの、富裕⋅上流の大学教授令嬢のあり方。それまでの経緯がなく、敬虔なクリスチャンが教会に限界⋅疑問を感じてたらしい事くらいしかわからない。この進め方自体がシュールというに近い。部落をリードする、「浮浪者の集まりではなく、都から職業証も得た自活してく者らの生活共同体」を標榜、都からの「不法占拠への立ち退き⋅焼打ち」(代替え地も巨額の金を用意を必要とさせてる)を拒む「会長」、その頭脳的⋅片腕的存在で、ヒロインの事を「偽善」「神が作者の1俳優」「利用するだけ」と冷ややかな「先生」。間もなく好意的協力的前者に続き、後者も、身を粉にして溶け込み住民化(「一時だけで、去られ残された者の事を」という父の忠告にも応え)、異端視してた周囲を惹き付け(元オンリーの批判者すら)、費用は自ら働いてつくる(やがて身体を壊し不治の病に)彼女に動かされてくる。子供たち自体が、親も価値を認める、生来のピュアさ⋅前向き助け合いを取り戻してくる。違法⋅犯罪紛いも平気で、イザコザ絶えず、シニカル⋅諦めの変人揃いだった住民も、キリスト教を普通に取り入れてくる。マスコミも好意的か、物珍しさか騒ぎだすが、それを利用を考える「先生」に対し、彼女は素っ気もない。周囲が次々焼打ちになる中、そこで最期を迎えんとしてる(「先生」も「役は終わり」と言いながら、頼り)ヒロインが届けた子供たちの真意の文集が都を動かす。
バタ屋街の描写が妙に造型力に溢れ、魅惑的な一方、実話に沿うと言いながら、話の展開の信憑性、ファンタジー美化昇華は薄い。説明不足を露わにしつつ、当時新人女優の、邪気や計算のない、そのまんま素顔のあり方に寄り添う。カソリシズム、シュールリアリズム、を跨ぎ超えたなにかが、納得⋅説得力を越えて、迫り胸打たれてるを感じてくる、しかも殆ど純粋に。背景はミニチュアや絵、バラック群の中⋅比較的大建築おっ建ての過程、ゴミの収拾⋅分別の手間の響き、らがリアルを越えた存在の価値を伝え、スコープ画面で角度⋅サイズ的確というには緩め、しかし本当に併行、大きめ貫きめカメラ移動も伸びる力与え、妙な質感⋅手応えが続く。納得出来たのか、出来なかったのか、逆に問うてくる所が作品のみそか。
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同じように初期スコープ画面で似た強さの、縦横移動や、縦めリバースやどんでん⋅退きめ長めも、かなり力をもつ『欲』の方は、寓話⋅すっとんきょう奇伝にしても、作品の名優ら⋅個性派らの押しの強さ、その絡みの妙味、はもたせてくも、理解しようと努める気もあまり起きない。不明の猫帰りも不具者に、から始まる不老不死薬の研究者を巡り、協力者⋅記者⋅ニュース化⋅怪しい会社介入、らが事態を拡げてくが、当の研究者の異常解明に行き着く、話。リアリティない上に、薬の原料が、人間男子の「タンク」(睾丸)のひとつ提供による、当人らの恐怖⋅のせられの様々が面白めとはいえ、ヒトラー政権下でもあるまいに⋅現代にあり得るか、とノレなくなる。しかし、これが当時話題になった尾崎士郎の原作に基づくとなると、そんなのが受けいられる時代が日本にあったのか、そっちが気になってくる。
実話である物語のバックグラウンドを知らなければ、単なるザ・美談な取るに足らない映画では。

ここではアダ名で呼びあうんだと、絵が上手い奴は直球で「ピカソ」だったり、子供をばんばん産むおばさんは「鶏ばあさん」だったりで面白い。アダ名で呼び合うっていうのが、いかにもスラム街。しかしその子供たちは名前で呼び合っているのは良い演出だった。

主人公の北原先生がどうして蟻の街に身を捧げるのかが伝わらなくて社会性のない人、さらに言えばちょっと狂人にさえ見えてしまったのは残念。そもそもあんまり魅力のある俳優でもなかった。何で抜擢されたんだろう?
あと後任の先生を嫌な女に描いていたのも謎。

南原伸二や佐野周二のバックグラウンドも描いて欲しかったけど、当時の観客は実際のモデルを知っていたのかも。

南原伸二がキリスト教信者は嫌いだと言い捨てたり、若い白人牧師が蟻の街の住民はみんなドロボウと言い切ったりして、キリスト教どっぷりじゃないところは良かったかも。

とにかく南原伸二(南原宏治)は豊川悦司に見えた。
台詞なく映り込んでいる時も飯田蝶子はバタヤのおばさんにしか見えなかったのは凄い。『どっこい生きてる』(今井正)でのニコヨンばばあと同じ感じ。
現場リーダー格の三井弘次や、中村是好、浜村純など(見た目)ニコヨン俳優勢ぞろいが嬉しい。

飯田蝶子の息子役の丸山明宏の使い方は勿体ない。オープニングだけでなくもっと歌わせてあげて。。

今村昌平や浦山桐郎は本作をどう思ったのだろうかが気になるところ。

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