タケオ

ロボコップのタケオのレビュー・感想・評価

ロボコップ(1987年製作の映画)
4.6
 あの勇ましいテーマ曲を聴くだけでいつでも心が高鳴る。端的にいって『ロボコップ』(87年)が映画史に残る最高の映画の一本であることは論を俟たない。「近未来のデトロイトを舞台に、ロボットの警官が悪と戦う」という聞いただけでは幼稚にすら思えるプロットながらも、そこには当時のレーガン政権に対する鋭い風刺や露悪的なブラック・ジョーク、果ては「人間」という存在に対する深い考察がある。そして何よりも、見るものを圧倒する度を超えたバイオレンス描写は、当時のハリウッドに衝撃を与えた。
 エドワード・ニューマイヤーとマイケル・マイナーが執筆した『ロボコップ』の脚本は、「バカバカしすぎる」という理由でハリウッド中から敬遠され、たらい回しにされていたものだった。ポール・ヴァーホーヴェンも『ロボコップ』の脚本が送られてきた時には、読みもせずにゴミ箱へ捨ててしまったという。しかし、妻のマルティーヌがそれをゴミ箱から拾い上げ、「とりあえず読んでから断ったら?」とアドバイス。そのひと声によって、『ロボコップ』の企画はようやく動き始めた。『ロボコップ』ファンは誰1人として、マルティーヌ・ヴァーホーヴェンに足を向けて寝れないのである!
 セックスとバイオレンスと下衆で軽薄な人間の姿を描かせたら天下一品のヴァーホーヴェンだが、そんな彼の情け容赦のないタッチは本作でも絶好調。本作の登場キャラクターも、後にロボコップとなる主人公マーフィ(ピーター・ウェラー)とその相棒ルイス(ナンシー・アレン)を除いては、ほとんど全員が同情の余地すらない最低最悪のゲス野郎ばかりだ(マトモな人間はせいぜい署長ぐらいだろうか)。残酷なまでに資本主義の原理を体現する巨大企業オムニ社の面々などももちろんだが、何よりも本作最高の悪役は、マーフィを殺害しロボコップへと変身させた張本人クラレンス・ボディッカー(カートウッド・スミス)である。クラレンスは、プライド.思想.美学といった類のものはまるで持ち合わせていない。あるのは果てなき欲望と暴力衝動のみ。だからゲーム感覚で警官もぶっ殺すし、いざ追い詰められたら「俺は雇われただけだ〜‼︎」と平気で命乞いだってする。ランダムに暴力を振るうだけの、その場しのぎの短絡的な生き様。一周まわって天晴れとしかいいようがない。『ダイ・ハード』(88年)のハンス・グルーバー(アラン・リックマン)とも並ぶ、映画史上最高の悪役の1人といっても過言ではないだろう。
 クラレンスについて長々と書いてしまったが、もちろん『ロボコップ』は主人公マーフィについての物語である。クラレンス一味に惨殺されたマーフィは、オムニ社の手によってロボコップとして復活する。まるでキリストのように。「KSCオート9」というどでかい銃で容赦なく悪を撃ち抜くメタリックなヒーローこそが、ポール・ヴァーホーヴェンが考えるキリスト、すなわち「アメリカン・ジーザス」なのだ。しかしもちろん、マーフィは「神」ではない。マーフィをロボコップとして蘇らせたのは'神秘的な力'ではなく、資本主義を最悪の形で体現した巨大企業だ。キリスト教が主流のアメリカに対して容赦なく喧嘩を売っていく骨太なスタイル、正にポール・ヴァーホーヴェンの真骨頂である。
 ロボコップとなったマーフィは次々と悪を成敗していくが、自分の中に僅かに残された「人間の記憶」に苦悩することとなる。『ロボコップ』は単純な勧善懲悪のSFアクションではなく、マーフィという1人の人間の「アイデンティティ・クライシス」についての物語でもあるのだ。犯罪者や巨大企業が暗躍する荒廃したデトロイトの中で、マーフィは最後まで戦い続ける。自らの「アイデンティティ」を取り戻すために。『ロボコップ』はありったけの風刺やブラック・ジョークを詰め込みながらも、「実存」という普遍的なテーマをソリッドなタッチで描き出した真に素晴らしい傑作だ。オムニ社の会長から「いい腕だ。名前は?」と問われたマーフィが短く返答するラストの切れ味は、もう完璧としかいいようがない。
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