このレビューはネタバレを含みます
都市部で一人暮らしを経験した者には、この映画は決して他人事ではない。群集の中にいるにも関わらず、強い孤独感に苛まれる、誰も自分を知らないという恐怖。ホラー映画よりも遥かに怖い。この映画を積極的に他人に勧める人は心が病んでいる。しかし私自身を含め、孤独を体験した者の心の奥深くに届き、抉られる映画である。
スコセッシ監督と名優デニーロコンビの作品を初めて観たのがこの映画。
この作品を怖いと思っている人はあまり多くはないかもしれない。
トラヴィスの凶行は、孤独な人間であれば誰でも起こしうることであり、そして、そのきっかけは失恋だったのだから。
ニューヨーク。ベトナム戦争の帰還兵であるトラヴィスは不眠症に悩まされていた。
そのために彼が選んだ職業はタクシー・ドライバー。
トラヴィスは皆が行きたがらないような高級地区だろうと黒人街だろうと、どんなところへも行く。
仲間たちはそんな彼を守銭奴といって冷やかす。
戦争からの社会復帰は心機一転であり、仕事を求めて田舎から都会へ渡った者の心理に似ている。
ある日、次期大統領候補パランタイン上院議員の選挙事務所で見掛けた女性に一目惚れしてしまったトラヴィス。
その美しい女性の名は、ベッツィ。
パランタインの選挙運動員。
一目惚れとはいえ、度々選挙事務所の前に車を止めるトラヴィスは、現在で言えばストーカー。
居ても立っても居られず、選挙事務所を訪れたトラヴィスは、ボランティアの選挙運動員として参加したい旨を申し出る。
明らかに選挙には興味がなく、彼女目当ての行動。しかし恋する男として私達観客は共感せざる得ない。
選挙事務所に居合わせた運動員のトムはトラヴィスに警戒心を示すが、肝心のベッツィの方は案外彼に興味を持ったようで、カフェで話をすることに。
トラヴィスの学のない素朴さに、好奇心を抱いたベッツィは、今度一緒に映画を観に行こうという誘いに応じることにする。
上手くは行かないであろうトラヴィスの恋の進展に、エールを送りたくなる。
彼女と別れ、トラヴィスがいつものように街を流していると、偶然パランタイン議員を乗車させることに。
いかにもあなたの支持者ですと言わんばかりのトラヴィス。
議員の政策など何も知らないトラヴィスは政治に無知な若き一般市民の代表だ。
当選した暁には、こんなゴミ溜めのような街は一掃して欲しいと漠然とした願いを頼むトラヴィス。
その後、トラヴィスがイースト・ヴィレッジを走らせていると、少女の娼婦がタクシーの中に逃げ込んでくる。
議員という地位のある年配の人間と、最下層の生活をしている幼い者とのギャップ。
都会の縮図を感じる。
彼女はアイリス、12歳。
どうやらポン引きのスポーツに追われ、一刻も早く逃げたい様子。
しかし、すぐにスポーツに捕まり、連れ去られていく姿をトラヴィスは唖然として見つめるだけ。
議員を乗せた直後、ゴミと言った人間には関わりたくない様子。冷めたトラヴィスの目は俺はああなりたくないと語っている。
自分は違う人間だと言いたいが、その根拠がない同じ一般市民のトラヴィス表情が闇に浮かぶ。
数日後、ベッツィとのデートの日の夜。
トラヴィスが彼女を連れて行ったのは、ポルノ映画館。
当然ベッツィは憤慨し、その場を立ち去ります。
自分の趣味を知って欲しかったのか?
ポルノというものを知らず、これも映画の一つと思っていたのか?
ポルノを見せて、その気にさせたかったのか?
はっきりと彼の本心は分かりません。
しかし、ここで私達観客は、いかにトラヴィスが世間からズレているかに気が付きます。
そのズレは戦争からくるものであり、また田舎者と都会のズレでもあるのです。
後日、謝罪の言葉も聞き入れず、完全に無視していたベッツィに対して逆上したトラヴィス。
選挙事務所に押し入り、彼女に罵詈雑言を浴びせる。
前々からトラヴィスに嫌悪感を抱いていたトムによって追い出されてしまう。
なんともみっともない恋の終わり。
しかし、これも学力や地域格差の象徴と言えます。
それからしばらく後、この街から逃げ出したいと先輩のドライバーに漏らしていたトラヴィス。
娼婦として働かされているアイリスの姿を再び見掛けたこともあり、自らの手で町のゴミを掃除しようと考え始める。
女は自分を認めてくれなかった。
失恋の痛手から、自己の存在をアピールする方法、自己肯定感を誤った方向に求めるトラヴィス。
銃の密売人からマグナムやワルサー、軍用のナイフなどの強力な武器を手に入れ、射撃訓練や肉体改造に取り組み始む。
一見、正義感に目覚めた自警活動にも見えるが…。
私、いいことしているでしょ?と自己満足とアピールの為にボランティアをしている人の動機と同じ。
失恋の痛手から、俺は何て可愛そうなんだと、酒に溺れないのは立派だが、これも同じ自己憐憫と自己陶酔の行為。
あー、そっちに走ってしまうのか…と
失恋経験のある人は思ったはず。
ある夜、訓練によって銃の扱いに慣れたトラヴィスは食料品店に押し入った黒人の強盗を射殺。
仲間内からは殺し屋と呼ばれるようになるも、彼の中ではまだ何かが足りない。
その後、トラヴィスは客としてアイリスの下を訪れる。
こんなゴミ溜めから早く逃げなければと彼女を説得しようと試み、そんな彼の言葉をアイリスも受け入れているよう。
可愛いそうな人間への善意。
しかし、そんな自分も実は同類であることを認めたくない。
明らかに自分が優位に立つ為の行動です。
そして運命の日。
自らモヒカン頭に刈り上げ、銃やナイフを仕込んでパランタイン大統領候補を暗殺すべく演説集会に向かうトラヴィス。
自分は特別な人間だという自己主張か?
しかし明らかに悪目立ち。
ベッツィへの報復行為であることも悲しい。
演説が終わった頃合いを見計らい、トラヴィスがパランタインに近づこうとした所をシークレット・サービスに見つかり、即座に逃亡。
ヤケになった彼はその足でアイリスの下へ向かい、スポーツらポン引きたちを襲撃。
銃撃戦を繰り広げることに。
この銃撃する時のトラヴィスの笑顔❗️
そう、鬱屈した欲求を晴らせるなら、誰でも良かったのです…❗️
個人的に映画史上、最も怖い笑顔です❗️
アイリスの部屋に客として入っていた男をも殺したところで、警官が駆け付ける。
自殺を試みるトラヴィスでしたが、肝心の銃が弾切れに。
するとトラヴィスは左手で銃を形作り、笑みを浮かべながらこめかみに指を当てて自殺する素振りを見せるが、すぐさま警官に取り押さえられる。
アイリスを救うことには成功(故郷へ戻った)したことで、マスコミはトラヴィスを英雄として扱う。
この顛末も怖い❗️
快楽殺人が英雄視されるなんて❗️
それからしばらくして、ようやく仕事に復帰したトラヴィス。
ある夜、偶然ベッツィが自分のタクシーに乗車する。
彼女と二言三言言葉を交わすも、トラヴィスは彼女を無視し、ただ去っていく。
この映画は、個人の心の闇だけでなく、ベトナム戦争の暗部を照らす側面も持っている。
トラヴィスもまた、戦争後の闇に取り残された帰還兵の一人。
トラヴィスがベトナムで殺し合いをしている一方で、その間も社会は確実に先に歩んでいた。
ファッショナブルできらびやかなニューヨークの街とトラヴィスが抱える闇とのコントラスト。
トラヴィスの心を孤独と疎外感で蝕んでいく。
彼は不器用だが、悪い男では決してない。人並みの優しさを持ち、人並みの正義感を持ち、人並みの道徳観念を持っている男だ。
唯一の問題は、社会に居場所がなかったこと。
当時のアメリカには、ベトナムから帰った帰還兵の居場所はどこにもなかった。
ベトナム戦争が引きずるアメリカ社会の闇を描いた社会派映画である一方…
トラヴィスの孤独と狂気は現代においても普遍的なテーマになり得るものです。
むしろ閉鎖的な現代社会の方が、より深いところまで蝕まれているようにさえ思います。
トラヴィスの凶行は、現代の理由のない凶悪犯罪とよく似ている。
それを生み出すのは、トラヴィスが抱える世間とのズレ。
女性をポルノに連れて行ったら嫌われるという常識的な恋愛観の欠如。
何かを始めたいけど、何をしていいのかわからないという葛藤。
叶わないなら殺してしまえ、壊してしまえという極端さ。
こうした世間とのズレは、現代社会の居場所がない人たちにも共通している。
社会に居場所がないことが、トラヴィスの凶行と、現代の理由なき凶悪犯罪の共通点。
トラヴィスは精神的に追い詰められ、次期大統領候補の議員を暗殺することで、自分の存在を証明しようと試みる。
彼は戦争中と同じように破壊(殺人)によって、自分の存在を認められたいと求めたのだ。
現代社会で居場所がない人たちもまた、トラヴィスと同じように疎外感と孤独に蝕まれている。
非行、暴力、リストカット、殺人、自殺……etc
追い詰められた心はやがて狂気を生み、彼らの行動の最大の動機に育っていく。
居場所がない人たちは、狂気(破壊)によって人に注目されようと考えるのだ。
トラヴィスの狂気の成功が、さらなる破壊を生み出す危険性がある。
トラヴィスはたまたまその目論見を成功させることが出来た。
非行によって親に注目された少年。
暴力によって自身の力を示そうとするDV。
リストカットで相手の気を惹こうとする恋人。
殺人によって名を知らしめようとする犯罪者。
自殺によって相手の心に自分を刻みつけようとする被害者。
中にはトラヴィスと同じように、成功を収めるケースもあるだろう…
しかし多くの場合、その失敗は無関係で善良な人の死によって証明される。
トラヴィスは優しさや道徳に従ってアイリスを救ったわけではない。
ただ自分ではどうしようもない衝動をぶちまけただけに過ぎない。
彼はそうすることによって、怖いことに社会に自分の居場所を作ることに成功してしまった。
心理的な成功体験は、「自分のしたことは間違っていなかった」という思い込みを生む危険性をはらんでいる。
その点で「タクシードライバー」は普遍的な教訓を持っている。
ラストシーンでサイドミラーに映るトラヴィスの目にはアイリスは写っていない。
彼の目は、「正当化された狂気」という凄まじく厄介なやる気、熱意を宿していた。
帰還兵の歓迎ムードが長くは続かないように、おそらくはトラヴィスへの賛美も儚いひと時の夢。
夢から覚めたトラヴィスは再び狂気を育て上げ、(何か凶行を起こして)いつか必ず失敗するだろう。
あの時、失敗していれば…
狂気に身を委ね続けてそこから何かを学び、成長する日がやってくるかもしれない。
「タクシードライバー」の公開から月日がたった今日、トラヴィスのような狂気の種子があちこちに育っている。
それは同じ街に住む人かもしれないし、隣の家の人かもしれない。
あるいは家族の誰かかもしれないし、恋人かもしれない。
居場所がない人たちはどこにでもいるし、いつでも誰でもなり得るのだ。
ゆえにトラヴィスは孤独な人間の代表であり、親近感が持ててしまう。
誰の中にも、自分の中にもトラヴィスが存在することに気づいてしまう。
全く持って、怖い映画なのである…
この映画を積極的に他人に勧めてはいけない。それは、自分はトラヴィスと全く同じだと言っていることと同じだから。
逆にこの映画に共感しない人は、幸せな人生を歩んでいると言えるだろう。