yoshi

汚れた英雄のyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

汚れた英雄(1982年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

この映画は記憶に残る映画だ。
映像の与えるインパクトは今も一級品。
「日本映画 バイクレース」と検索すれば必ずトップに表示される。
今だにバイクレースの世界を本格的に描いた邦画は無いのだ。
私はこの映画を支持する。

本作は原作小説を読む前と読んだ後では、印象が全く異なる。
しかし「読んでから見てくれ」とは強要はしない。
映像を頼りに、原作を想像して欲しい。
それは製作側の意図でもあるはずだ。

この映画と出逢ったのは、自転車に飽き飽きしていた少年の頃だ。
少年の私にとってバイクは「自由の翼」であり、憧れだった。
主人公、北野晶夫はそのバイクという荒馬を乗りこなし、美貌と鍛え上げられた肉体で美しい女性を虜にする。
地位と名誉と贅沢な暮らし。
男の欲求を全て満たしていたのだ。
耳に残るテーマ曲と背徳的な題名も手伝って、少年の私は虜になった。

この映画をみてから、少年の私は大藪春彦著の原作を読み漁った。
この映画の良さを理解してもらうには原作について語らなくてはならない。

原作は文庫本にして4冊分におよぶ長編であり、1960年代の世界グランプリを舞台にした壮大な小説だ。
 
「汚れた英雄」は、日本のオートバイメーカーが世界グランプリに挑戦し、やがてグランプリを席巻していく1950年代末~1960年代後半までを主な背景にして描かれた1人の男の物語であり、北野晶夫はその物語の主人公だ。

生まれた直後に父を、第二次世界大戦中に母を亡くし、戦災孤児となり母方の叔父の実家が経営するバイク屋に引き取られた主人公・北野晶夫。
しかし晶夫はレーサーとメカニックの両面で天才的な才能を持っていた…。

本来は「貧しさから這い上がる成り上がり者」の物語なのだ。

80年代は角川映画に影響されて大藪春彦作品は結構読んだが、この「汚れた英雄」は彼の作品としてはかなり異質だ。

人生の無常に対する虚無感や屈折した心理は全ての作品に共通するが、そのほとんどが犯罪者か警察官が主人公だった。

ハードボイルド小説の旗手だった大藪春彦にして、「汚れた英雄」の主人公・北野晶夫は、誰も殺さないし、銃を撃ったりもしない。
また、当時の日本人著名レーサーたちが実名で出てくるところも違っていた。

彼は、自分が愛する二輪のレーサーとして世界を純粋に目指しており、掛かる費用の重要性は十分に理解しつつも、決して金のためではなく、自分自身の満足感とスピードへの陶酔感のために走る。

彼はレーサーとして名を挙げる前に、富豪の娘を虜にすることですでに一生分の金を得てしまったことを恥じる。
一流のレーサーとなり自己実現を果たさなければ、男として、人間としての誇りは得られないと固く誓うのだ。

北野晶夫は、その類い希な才能を持って世界的なレーサーとして活躍するようになるが、その一方で 、世界中にその名を轟かせるプレイボーイとしても有名になり、28歳でレース中に散るまで、波瀾万丈に満ちた孤高な人生を送る。

大藪晴彦が描くどの小説にも登場する、とにかく徹底した「ハードボイルドな主人公像」に漏れず、北野晶夫はまさに「孤高の男」として描かれている。
 
とことん現実に近い時代背景を通じて展開されるこの物語は、まるで北野昌夫と云う日本人ライダーが実在していたかのような描写で展開される。

また同時に、当時の日本の二輪メーカーが挙って世界に進出し、グランプリの世界を席巻していく様子がひしひしと伝わってくるのだ。

その中を生きた「北野昌夫」という、決して自分の心を開かず、孤独で、そしてあまりにも刹那的な人生を送ったひとりの男の生き様は、多かれ少なかれ自分の心に様々な影響を与えた。

原作小説はまるでドキュメンタリーのようでもあり、非常に読み応えのある作品なのだ。

…にも関わらず、その映画版はあまりに主人公がカッコよさを強調しているため、「現実離れしている」とか「草刈正雄のPVだ」とか今だに酷評されている。

しかしながら、「カッコよくありたい」「女性にモテたい」という欲求は、全ての男性にあるはずだ。
主人公・北野晶夫は、その意味ではまさにカリスマ的存在である。

そして、スポーツにしろ、仕事にしろ、男なら「1番になりたい!」という欲求に一度は駆られたことがあるはずだ。

この映画は本来なら、もっと男性からの支持を得て良いはずなのだが、残念ながら映画ではストーリーにおいて大切なモノが欠けている…。
そこが酷評される理由だろう。
それは私たち庶民が「共感できる部分」だ。

本作の監督は、当時の角川文庫の代表、角川春樹。
同氏は本来、映画プロデューサーではあったが、時々映画監督もしていた。
映画監督として酷評する人も多い同氏だが、財力を活かした映像は、時々すさまじく印象に残るシーンを提供する。

この作品もそんな同氏の強烈な個性が垣間見える作品だ。

おそらく角川氏は原作小説が大好きで、主人公を飛び切りのカッコいい男に描きたかったに違いない。
全ての男が憧れるような…。
それは角川氏自身の憧れでもあったろう。

そのため映像や舞台は派手で凝りに凝っているが、肝心のストーリーはあまり重視されていない。
原作にある、貧しく不遇だった少年時代や、スピードの中に彼が求める「純粋な渇き」の原因は描写されていない。

(唯一、語られる過去は「夏の晴れの日はバイク屋の仕事が忙しく、子どもの頃は雨の日の海で泳いだ」という独白くらいか。)

その代わり、この映画では北野晶夫のカッコ良さをこれでもかと見せている。
演じる草刈正雄は、正に適役。
当時にこれ以上のキャスティングは見当たらない。

打ちっぱなしコンクリートのデザイナーズマンション。
華やかな衣装が並ぶウォークインクローゼット。
地下室にあるプールには、鍛え上げられた主人公の強靭な肉体の印影が浮かぶ。
原作以上に誰もが羨む贅沢な暮らしとカッコ良さだ。

庶民には縁のないレーサーとはいえ、浮世離れしすぎている。
しかしその映像は、強烈なインパクトを見る者に与える。

そして、際限なく女性にモテる。
主人公は天性の美貌を武器にして、資金力のある女に近づくジゴロとして描かれる。
世界的ファッションデザイナーや、財閥令嬢、果ては世界的に有名な資産家まで、彼の虜となる。

派手な社交界に参加して資産家の女性をオトし、二輪車メーカーのワークスチームに対抗するための資金を、主人公が自身のプライベートチームのために獲得する。

映画で主人公はレースや練習以外の時間を女性に対してマメに費やす。
特に女性資産家のために部屋一杯の花を贈る部分などは観ているこっちが恥ずかしくなるほどだ。

しかし、主人公の目線はほとんど女性を見ていない。
その遥か遠くを見ているのだ。
正に眼中には無い。
自分の人生の目的は女性ではないと言わんばかりだ。

「女遊びがメインでレースは添え物のようになってしまっている」との評があるが、原作にはただのヒモとして終われない主人公の葛藤や苛立ちがある。

しかし映画版のように、程よい距離感を保ち、ここまで女性に尽くす主人公は現在のコンプライアンスが厳しい世の中でも充分スマートな口説き方のお手本と言える。

「ダラダラとしている」との評があるレースのシーンも悪くない。
ヤマハの協力により、マシンは当時ロードレースで使われていた本物を使用。

バイクに乗った経験のある者なら分かるはずだが、車載カメラに映るタコメーターの回転数と周りを流れる風景から、そのスピードは本物だ。

主人公のレースシーン吹き替えにはプロライダーだった平忠彦氏を起用しており、かなり見ごたえのあるシーンを展開する。

(アナウンサー役の伊武雅刀のカタカナ英語の実況と、時代を感じる電子音のBGMが少々脱力感を誘うが、)
スタートシーンの緊迫さや、選手が落車したり、マシンが炎上するシーンは、かなりこだわって作られており、クライマックスのレースは引き込まれる魅力がある。

転倒から復活して優勝するなど、現実には到底あり得ないが、その大逆転優勝には充分なカタルシスがある。

劇中の女性の言葉を借りれば、「バイクとセックスしている」ような、全てをかなぐり捨てた走りが、接触しそうな危なげなライン取りに表現されている。

もっともバイクレースを題材にした邦画は後にも先にも本作品を超える作品は皆無である。
もっと正当に評価されてもいい。

問題はこの映画はストーリーだけを追っていても大して面白くないということだ。
話の流れはぶつ切り気味で、説明不足だ。

主人公の過去の詳細は一切わからない。
なぜプライベートチームでトップを取ることにこだわるのか?
女性を利用することに罪悪感はないのか?
それらしい心理描写もない。

残念ながら映画ではストーリーにおいて大切なモノが欠けている…。
それは主人公に「共感できる部分」=「人間的な葛藤」なのだ。
この映画ではそれらのシーンをすっ飛ばしている。

北野晶夫の葛藤を知るには原作小説を読むしかない。

映画は極力台詞を削ることで、映像自体の持つ迫力を前面に出す演出を心がけたと言える。
最低限のものだけを残し、ギリギリまで削り込んでいるのだ。

演出の描写不足を補うかのように「こういうのをカッコイイと言うんだ!!」と言わんばかりの映像の数々が、ストーリーのつまらなさを超越し、記憶に残るインパクトを与えている。

映画版はある意味、俳句や短歌のように必要最小限の状況描写で作った趣きがある作品と言えるのだ。
ヨーロッパ製の説明不足だが、映像は美しい難解な映画作品と指向性は同じだ。

時代を捉えた長編小説を2時間弱で描き切るのは到底不可能。
しかし、そこに敢えて挑戦した姿勢は、原作を読んだ者としては尊敬できる。

「映像を頼りに想像しろ!行間を読め!」
今もって見ると角川春樹氏と脚本家の丸山昇一(松田優作版「野獣死すべし」)の叫びが聞こえて来そうだ。

シーン個々の印象が記憶に残る、ある種の芸術性みたいなものがあるのだ。
この映画はもっと評価されていい。
私はこの映画を支持する。
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