朱音

ダークナイトの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

ダークナイト(2008年製作の映画)
4.9

このレビューはネタバレを含みます

本作『ダークナイト』の以前と以後、ヒーロー映画の歴史が変わったのだ。

『ダークナイト』は公開から14年経った現在も、ヒーロー映画のベンチマークであり続けている。本作はヒーロー映画全体に大きな影響を及ぼし、同ジャンルの映画監督たちはその後、このベンチマークを満たすような作品、あるいはこのベンチマークに対抗するような作品を必死で作り続けてきた。

私が本作を単体で鑑賞するのはもう何度目になるのか、はっきりと覚えていないが、このクリストファー・ノーラン監督による『ダークナイト』トリロジーを再考するにあたって、初めて三部作を立て続けに鑑賞しようと試みた。前作『バットマン ビギンズ』を見返してみて分かったこと、『ビギンズ』に続けて本作を鑑賞してみて分かったこと、それらを纏めていこうと思う。


前作『ビギンズ』におけるクリストファー・ノーランの功績は、大きく分けてふたつある。
ひとつはこれまでのヒーロー映画にはなかった、主人公ブルース・ウェインの心情にスポットを当て、時間を掛けて、どうやってバットマンになっていったのか、そして自らの掲げる正義とはなにか、その心得を丁寧に紐解き、観客に理解させることだった。
そしてもうひとつが、やはりこれまでのヒーロー映画にはなかった、現実と地続きのリアルな世界観を構築し、そのディテールを積み重ねてゆくことだった。

本作は前作同様、いやそれ以上に、遥かにリアルに描かれた世界観の中で、ブルース・ウェインの、ひいてはゴッサム・シティにおける、あらゆる正義を叩き折るということをノーランはやっているのだ。
早い話が、映画一本丸々使って培ってきた物語を、根本から破壊するのが今作だ。

その立役者となるのが、本作から物語に登場するジョーカーである。
バットマン同様、強大な力も、特殊な能力も持ち合わせていないこの悪役が何故そんなに特別なのかといえば、それは"目的"が普通じゃないからだ。
普通のヴィランならば、目的を遂げるための障害となるヒーローを倒そうとする。だが、『ダークナイト』におけるジョーカーにはバットマンを殺そうという気はさらさらない。
だからこそバットマンにはジョーカーが何をしたいのか、掴むことが出来ず、勘違いを起こしたりもする。
金でも名声でも、復讐でもない。ではジョーカーの"目的"とは何なのか。
それは"秩序"を破壊し、"混沌"を巻き起こすことだ。自らを「混沌の使者」と呼び、世界に混沌をもたらすことが彼の"目的"であり、ゲームであり、生き様なのだ。

彼の計画はこうだ。
ゴッサムに現れた"光の騎士"であるハービー・デント、彼は自分の命を狙われてでも、ギャングと立ち向かい、市民からの信頼も厚い。ハービーのような"善"と思われている人間にすらも、"悪"という二つの顔があることを暴きたい。
そして彼はジョーカーの計略に嵌り、文字通り"善"と"悪"のふたつの顔をもつ、トゥー・フェイスとなってしまう。

その事を踏まえた上で、バットマンは正義の味方などではなく、悪党と同じレベルの人殺しであることを暴きたいのだ。
自分の素顔を明かす代償として市民の命が救われる、その状況を突き付けてもなお、バットマンは沈黙を保ち続ける。
そして、いざ究極の選択が与えられると、市民ではなく、自分が愛する人間を優先して助けるような、正義ではなく、自分の欲望に忠実な人間であることを暴きたいのだ。そしてバットマンは市民のヒーロー、ハービー・デントをある意味見殺しにして、愛するレイチェルを救おうとする。

人間は窮地に立たせられると本性が出る、前作で「人の本性は、行動によって決まる」というレイチェルの台詞があるが、まさにその通りなのだ。
結局、人間は欲の塊。利益と損失を天秤にかけ、いざとなったら仲間を裏切る。自分の愛する人が助かるのなら、他人はどうなっても構わない。

善人の皮を被った市民の、そしてヒーローの、本当の姿を暴くことが彼の計画なのだ。
ジョーカーがバットマンに殺されたがっているのも、不殺を誓うバットマンは、やっぱり悪党と同レベルの人殺し、であることを暴くためだ。

ある意味で、ジョーカーとバットマンはそれぞれ異なる正義をもっている。
バットマンにおける正義とは、社会秩序を乱す存在を悪とし、その悪党を捕まえる為ならば法をも侵す。そうして警察にも逮捕出来ない悪党を無力化し、刑務所に入れる。
そして彼の自警行為においての不断の決意とは、人間は更生出来るから殺さない。だ。

正義の味方であるバットマンは、ルールやモラルを自分の中で作り上げている。それはこれまでの経験や、近しい人間の忠言によってだ。

一方でジョーカーの掲げる正義とは何か。
それは、大きな力に支配され、自分自身で判断する事が出来ない今の世の中こそが狂っている。
誰かにコントロールされることなく、自分のやりたいことをやる。人間には、そのための意志、すなわち"自由意志"がある、というものだ。
この自由意志とは、本来善悪の彼岸にあるものである。

こうした、ジョーカーはジョーカーなりの正義があり、世界を変えようとしているのだ。
この行動原理は、ミルトンの『失楽園』におけるサタン(ルシファー)のそれと同義である。
『失楽園』にはこのような台詞がある。

「天国において奴隷たるより、地獄の支配者たる方がどれほどましであることか!」

逮捕されたジョーカーが、警察やバットマンを出し抜き、拘留されていたラウ(つまりマフィアの金)を連れ立って脱走するシーンがある。あの場面で、ジョーカーがパトカーの窓から身を乗り出す描写がある。
あれこそは"自由意志"の勝利、その凱旋の喜びを表現している。

ジョーカーは狂っているのか否か、作中でも自身でそう発言し、また第三者からみても、そう評されるキャラクターだが、私は先に述べたことから、決して狂ってなどいないと思っている。社会の規範から大きく外れているという意味においてはそうだが、むしろ自分の信念や生き様に忠実な生真面目な人間ではなかろうか。

バットマン、ハービー・デント、そしてゴードン、三者三葉の正義と信念が三本の矢となってゴッサムの悪と立ち向かうが、その三本の矢をもってして、ジョーカーひとりに叩き折られてしまうという無惨な構図が本作の全てである。


ヒーロー映画において、ここまで"正義"とは、"悪"とは、といった哲学を物語の主軸に据えた作品はあっただろうか。本作はトリロジーの第二部であり、バットマンが真のヒーローたるべく、立ち上がるための"試練"として、置かれた訳であるが、しかしてその重みは尋常ではない。
人間が、街が、たったひとりの人間によって、ここまで狂わされ、壊される様に震撼する。
だが、本作で最も恐ろしいのはそこではない。

『失楽園』はキリスト教の根幹を扱ったミルトンの野心作で、古典叙事詩の英雄が担う戦闘や冒険などを、悪役サタンが担当する奇想天外な面白さも魅力だ。神に叛逆するサタンやアダムにミルトンがその心情を置いていたと見る向きもある。
それほどに魅力的なキャラクターとして描かれているわけだが、本作におけるジョーカーがまさにそれだ。

アナーキーで、陶酔的で、自己破壊的、役作りにおいて実在のロックスターらをイメージしたというヒース・レジャーとノーランの狙いはバッチリ決まっている。
あらゆる支配や規範から外れて、ひとり"自由意志"を謳歌する。カリスマ性溢れる、その痺れるような佇まいに思わず入れ込んでしまう。
本作はどちらかというと、ヒーローものというより、ピカレスク・ロマンの風合いが強いのだ。だからこそ危うい。現実の私たちに影響を及ぼすからだ。
しかし、ラストにジョーカーの掲げる正義もまた、折られているのだ。それは彼が、とうに蔑み、ゲームの駒のようにしか看做していなかった市井の市民たち、そして、自分と同じ"犯罪者"たちの手によってだ。これは物語、あるいはバットマンに対する救い、なだけではなく、彼に感化されつつあった私たち観客にとっての戒め、そして救いなのだ。


9.11以降、ブッシュ政権下のアメリカの「正義」を問う。
街を救うはずのバットマンは他国まで出向いて戦闘を行ない、密かに街の全域に住む人々を最新のレーダーで監視するという違法な手段に出る。ハービー・デントもまた、事件関係者を私的に尋問し、銃を向けて脅して殺害するという、おそろしい行動に出てしまう。
ジョーカーの出現がこの2人の正義を危ういものに変えてしまった。バットマンにおいては、元々持っていた毒をもって毒を制す、という自警行為そのものの危うさが前面に出てきたものだ。

これは、製作当時のアメリカの状況を映し出す風刺でもある。9.11テロ事件以降、アメリカ政府は他国に軍事攻撃を行ない、CIAがテロ容疑者を拷問したという疑惑が持たれたり、軍の兵士が捕虜を虐待する事件が起こった。そして、ブッシュ政権下で国民のメールや電話などを監視するというのも、実際に起こったことである。本作は、そんなアメリカの狂態をバットマンやハービー・デントというかたちに置き換えて描いた、アメリカの是非を問う映画として見ることもできる。

「正義」の象徴であった人間が、個人的な理由によりその行動を変えていく光景は、人々の善悪の判断基準に本質的な問いを投げかける。正義か悪か、正常か異常か。アメリカの「正義」がそうであるように、それは見る者の立場や角度によって異なってしまうものだ。


前作に引き続き、Double Negative (DNeg)が『ダークナイト』のメインVFX制作会社で、チェイスシークエンスの大部分を担当した。
当初バットモービルの破壊は実際の車で撮影したものの、話を語るための演出に必要な構図が得られないと判明したので、バットモービルとバットポッドと周辺の風景をすべてCGIで描いている。
『バットマン ビギンズ』ではデジタル建築物は主にワイドショットや超遠景で使われたが、『ダークナイト』では建物のクロースアップショットの割合がとても増えた。そのためヘリコプター墜落シーンやバットポッドとトラックのチェイスシーンでは超高品質のCG建造物が使われた。
またハービー・デントの焼け爛れた顔半分を表現するため、アーロン・エッカートは顔にモーションキャプチャー用のマーカーをつけて演じ、3台のHDカメラで撮影しフェイシャルキャプチャーのデータをとったそう。

これらVFXが作品に高水準でドラマティックなアトラクション性能を齎している。


本作の現代クライム・ムービー的な側面をスタイリッシュに表現する為に、ノーランが参考にしたのがマイケル・マン監督の『ヒート』である。
冒頭の7分間におよぶ銀行強盗シークエンスなど、顕著であろう。役目を終えて用済みになった仲間を次々に始末してゆく、ドライさは『ヒート』のそれを超えるものだ。この冒頭だけで、映画のリアリティライン、および、そのハードボイルドな世界観を鮮やかに提示しているのが見事だ。


さいごに、
本作にも粗はある。それも決して少なくはない。
だが、冒頭に触れたように本作がヒーロー映画におけるベンチマークとなり、『ダークナイト』以後という現象を生んだのは紛れもない事実だ。
その呪縛が、この14年という中で制作された40本以上にも及ぶヒーロー映画に、なんらかの影響を与えたことを踏まえても、またこれまで看過され、侮られてきたヒーロー映画の新たなる可能性を模索し、一般の映画ファンに及ぶまで鑑賞に耐えうる高品質の仕上がりを実現させてきたことをは賞賛に値する。
ヒース・レジャーの演じたジョーカーは映画史に残る悪役であり、テーマ性、重厚なドラマ、ハードボイルドな演出、どれをとっても、前作とは比較にならない素晴らしさだ。
アクション描写の視認性の悪さなど、前作では至らなかった部分をきっちり改善し、適度に引いた画角、比較的長めのカットを用いている。まだまだ課題は多いが、それでも作品全体の品質を損なう程ではない。
朱音

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