公開当時に劇場で見て以来、この映画を何度か見ている。
偶然にTV放送で出会うのではなく、いつも見たくなって、自ら進んで見ている。
それはルトガー・ハウアー演じるヒッチャー、連続殺人鬼ジョン・ライダーという人間が、いまだに分からないからだ。
あらすじは至極簡単。
なにげなく同乗させてしまったヒッチハイカー(ヒッチャー)が実は連続殺人鬼だった。
その男に執拗にまとわりつかれる若者ジムの恐怖を描くスリラー。
よく「最も怖いのは人間だ」と言う。
罪の意識もなく、人を殺す殺人狂の映画が、なぜ作られるのだろう?
暴力性や残虐性は人間の本質の一部には違いないのだが、それを表に出してはいけないという教訓なのだろう。
他の人間が迷惑する、法律と社会がそれを許さない、人生が台無しになると。
そういった作品の多くは、結局は犯人がコテンパンにやっつけられて戒めが与えられる。
この映画も御多分に漏れない。
しかし、暴力を人間の本質の一部と感じるには、描かれる人間を理解し「あぁ、こういう背景があって、これが殺人の動機なのね…」と納得するから、そう思うのである。
映画に登場する連続殺人鬼には、大概そうなった背景や動機がある。
例えば、「羊たちの沈黙」のレクター博士には知的好奇心や食欲という動機がある。
「悪魔のいけにえ」のレザーフェイスにも殺人を好む家族と生育環境の背景がある。
ジョン・ライダーについては、作品中で描かれる情報が無いに等しい。
どんな人間なのか、分からないのだ。
快楽殺人鬼のようであるが、殺人に快感を覚えている様子は無い。
殺人の動機すら感じられない。
「何も分からない」そこが怖いのだ。
不穏な想像力を掻き立てられる。
得体が知れず、常に疑問符「❓」が付き纏う。
淡々と人を殺すジョン・ライダーに人間味がないところから、ルトガー・ハウアーが過去に演じた「ブレードランナー」のレプリカント、ロイ・バッティのようだという評が多い。
果たして、そうだろうか?
ロイ・バッティには同情できる。
限られた生命、そのように作った創造主への復讐、生命を全うすべく逃亡する、など、人間ではないが、とても人間臭かった。
ジョン・ライダーには同情できない。
彼の殺人はあまりに無差別だ。
女、子どもなど関係がない。
まるで人類抹殺機械のターミネーターのように超人的だが、血も流せば、痛みもする。
ジムを殺さないあたり、何らかの意図があるので、思考する頭脳と生身の肉体を持つ人間であるのは確かだ。
ストーリーは執拗な追跡且つ不条理な展開ゆえに、スピルバーグ監督の「激突!」を彷彿させるとの評が多い。
しかし「激突!」は主人公に追い越されたトラック運転手が「ムカついたから」という動機がある。
ジョン・ライダーにはヒッチハイクする車の同乗者や初対面の人間を殺すほどの怒りや憤りがあったのだろうか?
そこまでの激しい感情は見られない。
動機自体が分からない。
映画はジム(クリスチャン・トーマス・ハウエル)が土砂降りの雨の中に幻のように立っていたヒッチハイカー、ジョン(ルトガー・ハウアー)を車に乗せたことから悪夢は始まる。
世間話もそこそこに、ヒッチャーはいきなりナイフを突きつけ「死にたいと言え…」と迫る。
冒頭から、いかれたパワー全開のスピード感。
ジムは何も感に触ることは言っていない。
理屈の通らない不条理さ
ジムは恐怖におののき、隙を見てヒッチャーを車から叩き出す。
夜が明け、安堵の表情のジムは、砂漠の一本道で車を走らせる。
家族連れのワゴン車が追い越していく。
人恋しさに手を振ったジムは、後部座席の少女と一緒に、昨夜のヒッチャーが座っているのを目撃した。
ここでジムは善良な青年だと分かる。
大声で車を接近させ「そいつは危険だ、下ろせ、下ろせ」と助けようと必死で叫ぶが、運転席の夫婦には聞こえない。
しばらくして、前方に停車していたワゴン車の中では家族全員が惨殺されていた。
それ以来、ジムは執拗にヒッチャーにつけねらわれることになる…。
同時にジムはいつの間にか沿道の殺人事件の犯人としてパトカーに追われる身になっていた。
保安官に捉えられ、勾留されたジム。
うたた寝から目を覚ますと、警官も保安官も、オフィスの全員が射殺されている凄惨な光景を目にする。
あの狂気のヒッチャーの仕業だが、なぜ自分だけ生かしておいたのか?
見ているこちらにも、疑問符が浮かぶ。
殺しそびれた腹いせに、とことん怖がらせようとしているのか?
そうかと思えば、「お前は頭のいいやつだ」と褒める。
ジムが気にいって、共犯関係として仲間に取り込もうとしているのだろうか?
ヒッチャーの殺人行路は延々と続く。
ダイナーのウィトレスのナッシュ(ジェニファー・ジェイソン・リー)は、巻き添えを食い、結局はジムに協力して警察の包囲網から二人で脱出する。
ここに至ってジムは家族連れの殺し、保安官の射殺、警察オフィスでの皆殺し、大量殺人の犯人になっている。
ただ一人、ジムが逃亡中のパトカーの無線で話した警部補だけが事情を聞こうとしてくれたが、彼もヒッチャーに殺される。
ヒッチャーは拳銃でジムを追う警察の追っ手のヘリコプターを墜落させる。
「ジムは俺のモノだ」と言わんばかりに。
極め付けはナッシュの惨殺である。
本作では親切で純情な田舎娘のヒロイン、ナッシュが、狂ったヒッチャーにトラックで胴体を引き裂かれるという、凄まじい設定がある。
一対一の対決を描きたいならば、全く必要とは思えない残酷なシーンだ。
そこに至って、ある想像が浮かぶ。
ヒッチャーはジムを試しているのか?と。
ヒッチャーを撃てば、トラックが発進して、ナッシュが死ぬ。
ヒッチャーを殺さなくても、このままならばナッシュの身体は千切れる。
どうせナッシュは死ぬが、それならば、自分を殺した方が得だ。
自分を殺せばお前は助かる。満足だろう?とヒッチャーはジムに迫る。
この窮地に至って「自分を殺せ」というのだ。
ヒッチャーは自分の死を願っている。
当事者のジムにとっては、とても迷惑な話だが、「お前にだって、人を殺したいという残虐性はあるだろう?それこそが人間の本質だ!見せてみろ!」と言っているように思える。
そんなセリフはないのだが。
まるで人間の悪の面を引き出そうとする教師にように見えてくるのだ。
警察はようやくヒッチャーを捕えるが、彼の年齢、出生地、運転免許、指紋や前科も含めデータは一切なし。
全てにわたって手がかりがない。
人間的な背景が分からない。
現代に於いてそんな人間がいるのか?
もはや人間以外の砂漠の亡霊か、死の天使にも思えてくる。
この戦いは、死神と善良な人間の戦いだったのか?
怒りのあまり、ジムはジョンの顔面に唾を吐くのだが!
ジョンはその唾を愛おしそうに舐めるのである!
偏執的同性愛者にも見えてきて、見ているこちらは更に混乱する。
ラストシーン。
護送車の警官を全て殺し、ジョンはジムに向かってくる。
ジムが車で轢いても、向かってくる。
ようやく銃で止めを刺して、ジョンは絶命する。
やはりジョンは人間だったのだ…。
連続殺人鬼がジムをつけ狙ったのは、自分では止められない殺人行為を止めて欲しかったのか?
自分は悪だと自覚しているジョンは、善良でお気に入りのジムの手で死にたかったように見える。
それを裏付けるのは、ナッシュを殺す前にモーテルのベットに添い寝するカットだ。
ナッシュの眠るベットで、虚空を見つめるジョン。
「誰も俺に気付いてくれない。誰も俺を止めてくれない…」とでも言いたげな表情。
自分は生きているが、人を殺すことでしか自分の「存在意義」を得られないのか?と自問しているような表情だ。
この映画公開の後、しばらくして日本ではある事件が起きた。
1997年、神戸の中学校の校門前で、切断された小学生の頭が発見された。
あの酒鬼薔薇事件だ。
その口にくわえさせられていたのは警察に対する挑戦状。
かなりの残虐性から犯人像は中年男性かと思われていたが、逮捕されたのは、なんと14歳の中学生。
神戸新聞社に対する声明文で、世間の注目を集めたのは、「透明な存在であるぼくを認めていただきたい」という「存在意義」を求める言葉だった。
「警察はぼくの存在をもみ消そうとしているのではないか」、
「存在理由、目的は殺人」、
「透明な存在であるぼくを作り出した義務教育と社会への復讐も忘れていない」
…とあることから、自分に存在意義が感じられず、自己の存在を感じるために殺人を行った事件だった。
他人を殺すことで世間に気付いて欲しかったと言うのだ。
(とても迷惑な話だ❗️承認欲求を履き違えている❗️自殺して世間に気付いて貰え❗️…と当時は思ったものだ。)
自分の存在意義が感じられないことが、殺人につながることがある。
これは現実に起こることが、証明された。
私はこの事件の後、この映画のジョン・ライダーのあのシーンを思い出したのである。
ジョン・ライダーは、何者か分からない「透明な存在」であり、殺人によって「存在意義」を求めているのではないかと思った。
ジムに殺されるのを求めることも、ジムの心には深いトラウマを残す。
ジムの心に、ジョンの「存在」が深く刻まれるのだ。
ジョン・ライダーが自ら真意を言わず、そういったことを見ているこちらに想像させるのが、とても怖い。
アメリカの怖い映画と言えば、スプラッタという印象だが、あえて死体や残酷なシーンを映像化せずに、観る人の想像力に任せるような手法はかなり効果的だ。
本作ではその手法が、かなりの怖さを引き立てている。
シナリオだけ見たら、おそらく本作はチープな三流映画だ。
不条理から来る恐怖感だって「激突!」にはるかに及ばない。
にもかかわらず、この作品は面白い。
最大の立役者、ルトガー・ハウアーの存在感は大きい。
殺人鬼なのに、快楽に酔う笑顔や叫びなどせず、狂気をあからさまに見せない、人間離れした演技を見せる。
そしてこんな憎たらしい、存在意義不明の殺人鬼に対して、とても不謹慎なのだが、ジョンの姿を捉えた映像は、とてもカッコいい。
雨の中、朝靄の中に浮かぶヒッチハイクするために親指をつきあげるその後姿。
クライマックスのロングコートにショットガン。
そのどれもが広大な荒野を背景に、絶妙の構図に収まる。
魅力的な絵になるのだ。
ルトガー・ハウアーのことばかりを書いたが、私たちは小市民は基本的に本作の主人公ジムである。
善良な人間でありたいし、不条理に立ち向かう勇気も欲しい。
誰も助けてくれないという極限状態の中、
ジムの中で「俺が終わらせなくては」という感情が芽生える。
それは「自律」や「責任感」、「使命感」といった若者の成長だ。
ジョン・ライダー亡き後のラストカットは逆光の構図にC・トーマス・ハウエルのシルエットが車とともに映る。
壮絶な体験と選択をした人間の虚無感が出ている。
この作品は別の角度から見れば、ある意味「男」の成長を描いた物語でもあるのだ。
人間は「知らないモノ」、「得体の知れないモノ」に対して恐怖を抱く。
だから、この映画は怖い。
自分の存在意義がわからず、それを感じることができないとき、人は自殺したり、暴力や殺人などの非行に走ることは現実にある。
殺人鬼を扱い、それを倒す映画とは、実は1人の人間の中の善と、心の奥底に眠る「得体の知れない」悪との戦いを描いているのではないかと、この映画を見るたびに思うのだ。