140字プロレス鶴見辰吾ジラ

未知との遭遇の140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

未知との遭遇(1977年製作の映画)
4.2
【元祖レリゴー】

「ウーマンリブ運動」が盛んになった今日。「アナ雪」のレリゴー精神がディズニー帝国によってもたらされるずっと前にスピルバーグという男が繰り出していた。決して「ウーマンリブ」というわけでなく、「マンリブ」といった形でこの物語は幕を引く。スピルバーグ本人は失敗だったと語る本作の結末は、スピルバーグの臓物に他ならない。

演出面はアイスクリーム屋のトラックや移動遊園地のようなピコピコした電飾の未確認飛行物体との接触。オモチャと劇中で子どもに表現されていたが何かおどろおどろしい物体の接近に恐怖する。これは恐怖映画か?と言うくらい悪趣味。少年が連れ去られるシーンは幼き我が少年時代の愛すべきトラウマ。あれはポルターガイスト?むしろ「ジュラシックパーク」のラプトルとの鬼ごっこも私のトラウマなので、スピルバーグは自分の臓物さらけ出しながら観客の臓物にナイフを突き立てる。

スピルバーグは幼少期に失読症だったり、父親の暴力だったり、群れに馴染めず恐竜遊びするいじめられっ子で、いつか宇宙人が来て自分を宇宙に連れ出してくれるという期待を抱いていた。そのエピソードが映画の体温となってトラウマシーンから最後の遭遇、そしてレリゴーへと流れる様はストレートに気分良くそして気持ち悪い。

世の中がLBGTQの叫びに気がついて保護運動を開始したようだが、本質的な差別や、それではいじめられっ子やコミュニケーション不全には救いの手を見逃してはいないか?もっと本質的な「マンリブ」だったのではと思ってしまうのは、そこの部分の先見性か?

電子音で会話する気味悪くそして深淵を覗きたくなるエンターテイメント性と、自らの責任も何もかも放棄してレリゴーする取り憑かれた主人公像を受け入れたいし、受け入れてはいけないという心のアクセルとブレーキが頭の中で唸る。社会的には何かに取り憑かれたように一心不乱になることを社会不適合と揶揄するなら、出て行ってやる!の精神がいつか日の目に当たり調和主義からカオスな未来になってしまうのか?とスピルバーグの臓物を眺めながら自問自答してしまう映像的にも精神的にも不思議な映画だ。