140字プロレス鶴見辰吾ジラ

アキラ AKIRAの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

アキラ AKIRA(1988年製作の映画)
4.5
8/14
『1日何本映画見れる?』
7本目

【大いなる力】

1988年公開のアニメーション映画、監督は大友克洋。私がまだ産まれる前の映画だが、描いた当時の未来は2019年。そして東京オリンピック。東京への新型兵器の投下により代参時世界大戦が勃発し、そして未来の絵へ。リドリー・スコット監督、フィリップ・K・ディック原作の「ブレードランナー」で描かれた期待されぬ夢のない未来図。未来はいつから光の世界から「幸せを肯定しない世界」へと変貌していったのか?高度経済成長の急成長の巨大な軋み、バブルで高騰していく人のエゴ。多くの者は急流にしがみつくことの出来ない市井の人々だったであろう。大人が若者の熱量を封殺しているのは今も昔も30年前も変わらぬモノだった。冒頭の暴走族とのバイクチェイスをする抗争劇はあまりにエネルギッシュ。生々しく血を流し、ストレートに描く暴力は正義や悪と枠に収めない“力“という健全にも不健全にもなる何かが本作を大きく治めている。

カネダと鉄雄。前者は陽で後者は陰。この力という曖昧な感覚が蔓延する世の中で己の信念を持ち合わせているか否かの2人の持つ持たざるの関係性が、この世界に割って入る超能力という異端が受け入れるか否かが2人を分けてしまう悲しき運命のように見えた。今となってはヒーローとヴィランという構図は我々の見るコンテンツに蔓延っているが、あくまで今となってはなのだ。正義と悪が曖昧になると予告するような期待の死んだ未来が故に“力“を手にしてしまった者の内面の厚さや耐久性という形のない部分が剥き出しになったクライマックスへと我々の精神も誘う。何者にも成れる可能性はあるが何者にも成れない支配下であった若者の反抗心という割り切れない精神性が青天の霹靂、エゴの暴走として陰の側に堕ちてしまう物悲しさ、そこに反倫理的に配置されたに力があれば好きなように制圧し崇拝対象にもなれる期待感というモノが生々しく描かれる血や肉片が剥き出しになる世界観で溢れることで我々の鼓動や呼吸、心拍数は本作のバックグラウンドミュージックに呼応してしまう。

生きるということは欲望や焦燥感の急流に挑むのことかもしれない。溢れるモノに飲まれるか、泳ぎきるかと選択を強いられる中で個人主義か仲間主義かを対比構図として見せる中で、カネダと鉄雄の存在は大きかったと思う。

クライマックスはドチャクソに溢れるモノを自分の中に入れることすら困難で圧倒され、飲み込めなさに疲弊してしまったが、後世に語り継ぐべき劇薬としての完成度の高さは何年経っても色褪せぬ偉大なる汚れなのだと思う。




ここで本日は疲労困憊。
『1日何本映画見れる?』企画は7本でフィニッシュいたします。

もう1本行けたかな?

いや、ちょっと「AKIRA」について浸らせて…