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黒い雨のmazdaのレビュー・感想・評価

黒い雨(1989年製作の映画)
3.9
被爆者と家族のその後。
何においても、その場にいなかった人間というのは、どんなに心を痛めようと悲しもうと、それらは想像の痛みでしかない。
何本戦争の映画を見ようと、人からどれだけ話を聞いて学ぼうと、結局体験してない人間は当事者とまったく同じ位置から感じることはできない。

ここで感じたり考えた私の気持ちは何も嘘ではないのだけれど、寝て起きたら普通の毎日を迎えて、ご飯食べて仕事してって、そこに心を痛めた余韻はまだあったとしても体に染みついてるわけではない。この先忘れることはなくても、常にずっと心にしがみつくようにその痛みが滞在してるわけじゃない。
誰かと話してる時、笑ってる時、考え事をしてる時、必ず解放されている時間がある。ニュースで流れる殺人や災害にどれだけ心を奪われ感情を動かされ記憶に残っていても、次の日、来月、来年とどこかでその痛みから離れて日常を過ごしている時間が絶対にある。

でもあの日黒い雨を浴びた彼女やその家族達は違う。
ご飯を食べる時も、お風呂に入る時も、トイレに行く時も、眠る時も、目覚めた直後も、面白い話を聞く時も、誰かを想う時も、常に体に心に染み付いた痛みだ。どれだけ時間が経過して、どれだけ世の中が忘れようと生きている限り永久にその苦しみはまとわりつき、何もかもに影響してしまう。
それがこの映画で言ってた"人生を狂わされた"ということだ。物凄く悲観的な考えかもしれないけど、どんなに前を向こうとしてもその事実は絶対に変わることはない。事が起きてしまった以上そこから離れることはできない。

涙を流して苦しみを共感できても自分や自分の愛する人に起きない限り、結局人生の全てが変わるほどの影響ではない。
別に忘れたわけじゃない。津波のことも、有名人の自殺も、無差別殺人も、行方不明の小学生も、私が生まれる前に起きた拉致被害も、その被害者家族の死も、信じられないようないじめも、テロも、知人の大切な人の死だって全てを覚えている。思い出すだけで一瞬で涙が出そうなほど苦しくなる。誰だって覚えてるだろう。
それでも明日にはご飯を美味しいと言いながら食べたり、どうでもいいことに笑ったり、芸能人の誰が浮気したとか、誰がやめるとか、どうでもいいことに関心がむき、映画見たり音楽聴いたりごろごろしたり、普通に普通の毎日を生きれてしまう。

それが当事者にはなれないということだ。
この映画はその事を強く突きつけていた。すごく見る者に苦しみを与えながら、人生を変えられるほどの痛みを与えられた彼女たちと、それを見て私たちか苦しいと共感することは全然違うことに苦しくなった。そうやって感じることは、差別するつもりがなくても結果的にしてしまっているかのようになってしまうことがまた苦しかった。

アニメーションや写真ではなく、実写の映像でここまで残酷なリアルさを邦画では見た事がなかったかもしれない。最後まで苦しみ以外何も残らないが感じる必要のある痛みだった。
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