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メランコリアのmazdaのレビュー・感想・評価

メランコリア(2011年製作の映画)
3.8
これトリアーで唯一苦手な作品だったんだけど、久しぶりに見たら感じ方がすごく変わっていたので再レビュー。

地球にメランコリアという惑星が衝突するという危機に迫られた時の、鬱病の人間と正常(?)な人間の心理描写の対比を描く。

今作に限らずトリアーの映画に出てくる人たちというのは、頑固で、自分の考え方を絶対的に信頼していて、自分が正しく他が間違っているとでもいうくらいの強い意志を持ったキャラクターが多い。
主人公のジャスティンは映画で描かれるシーン以前から鬱病だったことが想像できる。人に迷惑ばかりかけて自分勝手に行動し、イライラするのも無理はない。
それでも以前からこういう人間であったとすれば、彼女の鬱病からくる突拍子もない行動にだって近くにいる彼等は慣れているはず。"この人はこういう人間"という受け入れ方ができれば、イライラしたとしても幻滅するようなことはない。
ところがこの映画に出てくる周りの人間は違う。自分が正しい人間であるという位置から彼女と接するから、彼女に優しくできない。自分達の思うようにならないこと、自分達と同じように考えて行動できないことを受け入れられない。

私も彼女の行動が理解できるわけじゃない、病気だからなんでも許されるわけでもない。それでも家族や大切な人なら彼女のことをもっと心配する。
その場の空気がどうだ、周りの人がどうだ、仕事がどうだ、金がどうだ、相手が何を求めていて、それにどう合わせるのか、みんながみんな鬱病の彼女にそれらを求め、それがまたさらに彼女を追い込む原因となる。
これで幸せになってくれるのならという願いも一方的な押し付けでしかない。これだけしてあげたのに、っていう見返りを求める下心がチラチラ見えてうざい。
自分の思うようにならないことに苛立ってしまえば身勝手な彼女とあまり変わらない。
鬱病で理解不能な行動をする彼女以上に、正常な人間として描かれている周りの人間にもっとイライラした。

でもジャスティンに対して理解力のない彼等に私がイライラしてしまうことは、彼等がジャスティンに対して思うように動かないとイライラすることとまったく同じものだと思った。どちらも自分の考えを正しいと信じる押し付けだ。
トリアーはこうやって見る人を試していると思ってる。見る側は自然な感情で不快に感じているのだが、実は自分達が日常的に誰かに与えてしまっているかもしれない不快感と同じだ。
誰もが何かをきっかけに異常になったり、嫌な一面もみんなが持っている。普通な人間のフリをしているだけ。

惑星の接近が迫るほど姉は取り乱し、逆に、死を受け入れているからかジャスティンはどんどん正常を保てるようになった。パニクる姉を冷静に見つめる彼女の姿は、彼女のことを哀れに見ていた人々の目線と変わりなかった。
みんな結局自分が1番可愛く、自分を1番信じているんだろう。

何度も流れる独特な音によって憂鬱感はより深まり、見終わった時の疲労感ははんぱじゃない。初めて見た時はその鬱々しさしか残らなかったのだけど、今回は感じることが多くて時間が経つと感じ方が変わるんだな〜とよく理解できたきっかけになった。他にもいろいろ見直さなきゃだなあ。
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