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わらの犬のyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

わらの犬(1971年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

この映画は正月の帰省の際に、良く思い出す映画です。この映画の舞台のように閉塞的な田舎はどこにでも在り、特に妻の実家での居心地の悪さ、そして私の知らない妻の過去を知る人々のしたり顔は、私に疎外感を与えます。蚊帳の外である私が、疎外感に耐えるには、毎回酒の力が必要。この映画は疎外感が暴力に変わる映画です。

まず極論しますが、この映画で暴力を引き起こす原因となる最も悪い登場人物は新婚の妻エミリーです。
彼女の無防備な姿と思わせぶりな行動です。

冒頭、自分の故郷がどんなに閉塞的な場所か分かっているのに、都会の習慣そのままにノーブラで歩き回る無防備さ。

嫁のなり手がいない田舎において、非処女性は娼婦の如く、若い男の目に映る。

そして連れて来た夫が、どこか頼りない都会のインテリとなれば、「俺の方があの娘を知っている。」「俺の方がアイツよりふさわしい。」と旧知の男共がざわめくに決まっている。

やがて村社会に入り込んだ都会のインテリ男が村人たちがイジメの対象となる。
そしてシャレにならないレベルまでエスカレートしていきます。

映画後半の凄まじい暴力描写が話題になる映画ですが、それよりも怖いのは映画前半の「静かな暴力」のほう。

村人の持つ都会の者への劣等感。
田舎ならではの抑圧された生活。
支え合いと馴れ合いの集団心理。

彼ら田舎者にとって、都会育ちの主人公は、妬みの対象であり、自分たちの故郷の一部を奪った略奪者であり、嫉妬と憎悪の対象なのです。

片や、都会育ちの主人公ディビットは所謂よそ者。
妻の生まれ育った土地の人と文化に馴染むべく、駆け引きをしながらも周囲を慎重に観察する。

バーでタバコをおごられるのを拒否するのは、村人に恩を売りたくないから。
自宅の補修に若者の手伝いを拒否しないのは、地域の親切を受け入れて、恩を売りたいから。

自分が優位に立つ為にじっくりと周囲を観察して、駆け引きをしている。

決して内気でひ弱な男ではなく、知性を武器に状況を打破したいと常に、したたかに考えている。

村の神父との会話がその最たるもので、数学者という科学的見地から神を語ろうとしない。

いくら主人公が知能で上回るとはいえ、体力と技能労働が正義の田舎。
妻も研究に明け暮れる夫に不満を抱く。

主人公は自分にも肉体的技能があることを証明しようと、村人に誘われた狩りに出かける。
しかし、その間に妻がレイプされてしまう。
(この時のダスティン・ホフマンのぎこちない狩りでの動作と、後半の強い意思のもとの自衛行動のギャップがたまらなく上手い。
また狩りという生の為の暴力と、妻のレイプという性暴力が、知的労働者の主人公の動きを通して描かれる演出上の対比がとても悲しい。)

表面上、主人公と村人の両者は「善」の仮面を被っているが、決して相容れることはないのです。

それは文化と環境、しきたりの違い。
私が、いやおそらく世の中の夫全てが、妻の育った環境で、肌で感じる違和感。
また、見知らぬ土地に転勤した時にも感じる「こんな所でやっていけるのか?」と感じる不安感に酷似している。

同じ人間でありながら感じる歪み。

後半を、壮絶な戦い一色で埋め尽くしたのは、田舎者の心理的な劣等感を、暴力として発散させたのは、この歪みを「視覚的にわかりやすく」しただけのこと。

つまり、前半も後半も描いているものは「暴力」なのです。

後半、主人公は自発的に村人を惨殺していくわけではなく、あくまで自己防衛の範疇を出ません。
そしてヘンリーという知的障がい者を助けるという正義の名の下の行動です。

村人が主人公に行うのは不法侵入と脅迫。
法律に照らし合わせれば、村人が圧倒的に悪い。

家に火をつけ、発砲までするのですから、もはや殺さないと収まらない状況。

知略で立ち回る主人公は「どうしてここまでさせるんだ。」と憤り、人間への失望を抱くのです。

さて冒頭に戻ります。
この映画で描かれる事件の顛末の原因は、妻・エミリーにあります。

大人しい旦那デイビットにイラつくのは、故郷に戻ってきてから始まる。

周囲との干渉が少ない都会で暮らしているときには、二人だけの世界では気にならなかったことが、いちいち気に触る。

故郷という、逃げられない体裁の中に戻ったとき、集団から疎外される怖さから、人妻としての体裁を保てなくなった。

人妻として生きるか、村の一員に戻るか、自分でも決めかねている。

村の若者に乳房を見せるのも、ワザとのように見え、泣き叫ばないレイプもどこか合意のもとに見える。

レイプされたことを夫に言えば、訴訟社会に育ったアメリカ人の夫は村人を訴える。そして、レイプの事実を知られることは、自分を辱めるだけでなく、この村には居られなくなる。
同時にレイプ犯は村の若者のリーダー。知られることは、村で自分を守ってくれる者を失う。

要は、全てが保身の為の行動だったのです。

ラストは映画史に残る名セリフで終わります。

ヘンリーの「(霧が深くて)帰り道がわからない。」という言葉に対してデイビットは「俺もだ。」と答えます。

妻の不貞を察し、正当防衛とはいえ村人を殺したディビット。
これからどうしたら良いか分からない…。


このラストは帰省の後の気持ちとよく重なるのです。
新年を迎えても変わらない田舎との関係。
帰省を終えての帰り道。
これからも、どう付き合っていけば良いのか分からない。

私はこのラストのセリフを思い出します。

生まれと育ちは、埋めることの出来ないどうしようもない谷のようなものなのだと感じるのです。


追記
最初に見た頃、意味深だなぁと思った題名の意味は、調べると老子の「天地不仁、以万物為芻狗」という言葉からのようです。

「天地にとって万物は芻狗(祭儀に用いるわらの犬)のようなものでしかない」=「天は、万物(人もモノも植物も)を平等に扱う」=「人間だけが、特別エライなんて思ってたら大間違いだ」と言うような意味らしい。

1970年前後、アメリカはベトナム戦争の真っ最中。当時の理不尽な支配、抑圧、不安を描いた過激な描写の映画群が「アメリカン・ニュー・シネマ」と呼ばれている。

サム・ペキンパー監督による「わらの犬」も、そんな時代の申し子。

私には主人公が、ベトナムに出征した心優しい若き兵士の比喩に思えて仕方ありません。
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