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白いリボンのotomisanのレビュー・感想・評価

白いリボン(2009年製作の映画)
4.1
 推定有罪なのは子どもたちかと思いきや、その子どもたちもどよめかすように、領主館とその周辺では小作人の妻の事故死、そこには何らかの不作為ありと憤る息子によるうっぷん晴らしの畑荒らし、領主の倅への謎の暴行、深夜の火災、事故死の女の夫で息子の父が自殺に至るまで、領主男爵と小作人の確執が背景にありとうかがわせる事件が相次いで起こる。
 その口火を切るように起きた医者の落馬、重傷事件だが、もしも医者がいつも通り徒歩でやって来て針金で足ん掛けを食らっただけで済んでいれば、牧師の倅マルタンも自身を橋の欄干渡りで神判にかける必要はなかったのではあるまいか?しかし、あれは些細ないたずらなのか、云うも憚る裏の顔を持つ医者への子どもたちからの懲罰なのか?どっちつかずな思いを抱えだすと推理欲にも火が付いてしまう。
 ところがこの映画のおかしなところは、案内役の先生31歳が17歳、領主館の子守娘に恋愛途上とあって気もそぞろ、探偵役ではポンコツなのである。従って、かのマルタンの奇行、それに先立つその姉クララを始めとした子どもら一党の不審行動も気に留まりこそすれ戦慄を覚えさせるにはどうも程遠いらしい。

 それをいいことに事件は領主対小作人の社会問題を浮き彫りにする方に転移し、他方、男爵の倅ばかりか、実はかの医者とは"関係"下にある村の助産婦の障害を持つ倅の二人への暴行事件に様相も標的も多方面化する。この領邦村社会の両極端への攻撃にはもう推理も何もなくなってしまう。相変わらず子どもたちは不審気であり、大人たちの階級社会には軋みが走っている。
 こうしたポンコツ先生のおかげで一層謎めく暗闘1年を経て欧州大戦となる。大公暗殺を待たずとも独英戦不可避と囁かれる一方で、ありそうであっても同時に列強の開戦忌避が作用すればなさそうなと思案されたのが欧州大戦である。ところがサラエボ事件で走った亀裂に君主らの十分な調停が成されないで始まる戦争に、なければ派よりもあれば派の声量圧倒で俄然賛成しクリスマスには凱旋だと沸き立つのが想像されるが、これに出征した先生の戦後の追懐からはそうした光景はうかがえない。それとともに開戦直前のあれら事件のことも、大ドイツ計三百万人近い戦死者数と莫大な賠償額、世界から後ろ指さされ逼塞する戦後ドイツを前にすれば霞んでしまう。

 しかし、あれほどの事が起きても何一つ解明できなかったあの社会に何が欠けていたのか?今の眼で見ればいちいち山ほど指摘できる。ところが監督が敢えてか?詳らかにしなかった帝国ドイツの中の男爵領世界の孤立と閉塞のありさまは却って細かに語られないことによって肌に伝わるようになったのかもしれない。色のない画面の涼し気な肌触りは事の様相とは裏腹であるが目には安らかだ。
 そうした様子をなぞる中、神を後ろ盾とする厳格さに抑え込まれる子どもたちが一方で、大人たちの理不尽さやさらには凶悪さ、醜悪さに神は目をつぶるのか?と、マルタンの不正を裁かなかったように神は医師の悪行も裁かないのか、それならば何が神にとって代わるべきなのか?と問う事を我々に想像させるだろう。ポンコツ先生に代わって監督が掘り起こすのがその点である。
 そして、のほほんと恋愛を生きた先生の生き延びた戦後、教職を去り実入りのいい家業の仕立て屋を継いで置き去った昔が、次の大戦を経て甦るのだ。

 この物語は実はそうしたドイツ百年の何を仕損じたか、の追想に基づくものと想像される。そうしたところを筋道立てて説明しない監督には一片の非ありと認めるが、ひとりの仕立て屋の1920年のある日のふにゃふにゃした追懐にとどめたところがまたミソなのである。
 つまり、その後の事、ナチズムを見逃し、権威主義世界を賛美し等等はあらためて言わないが、その同じ流れの上流部といってもいいだろう、あの開戦前夜の諸事件は、これほどまでに不安気でありながらほぼ不作為に流れ、遂に牧師すなわち神の脅迫によって追及の一端が阻まれる。それが子どもたちと諸事件とになんらかの関わりがあるとする疑惑であり、その追及は彼らに行動を促したかもしれない大人たちのさまざまな後ろ暗さへの批判とさらには神への疑いに至る大事を含むものである。それを牧師は娘クララによる十字架毀損での反抗表明によって気付いているのだ。おそらく先生の住む世界を揺るがすだろうその事態は先生の知りようもないところで圧殺されるのだが。
 子どもたちへと向き合う事に止めを刺す、この権威の発する言葉の力の威圧、魔術性という事が伝わるだろうか。頼りない先生が遂に立ち上がる出端をくじいたその力の背景となった神に離反する動きへの切迫感、その説明の難しさを事実と共に我々はあのようにクララの小鳥の十字架として知らされても、先生は永久に知ることはない。そんな先生の存在の心許なさをあの牧師による恫喝の様相が彩るところとなっているのが分かるだろうか。やがて弱り目に祟り目なドイツをヒトラーの演説が心揺さぶるようになるのと案外同根なのではないか。

 そうした権威者の働きは、終焉期には違いないが神の権威世界の無謬と、その神に威を借りた強権ドイツ帝国、男爵の小国社会、これらを揺るがすまいとする力としても及んでいたことを仄めかしている。例え凶悪犯の跳梁を野放しにする事が引き換えであろうとも、である。しかし、そこに作用していたのは言葉の力、ただそれだけなのだ。