朱音

ダークナイト ライジングの朱音のネタバレレビュー・内容・結末

ダークナイト ライジング(2012年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

『ダークナイト』トリロジーを締め括る壮大なスケールの最終章。

『ビギンズ』はバットマンの成り立ちと、自身の"正義"とはなにか、を確立する物語であった。
そして前作『ダークナイト』はそうしたバットマンの掲げる"正義"の矛盾や脆弱性を鋭く照射し、結果として沈黙を選ばざるをえない結果にまで追い込まれてしまった。
そして本作『ライジング』では沈黙したバットマンの再起と、その長きに渡る戦いの歴史に終止符を打つ物語となっている。


何故バットマンは8年もの間、沈黙を貫いたのだろうか。
それにはジョーカーの仕掛けた策謀を成就させんがためという、表面上のトリガーはあるものの、実態として、ひとつにはゴッサムがバットマンという存在を必要としなくなったからだ。

前作『ダークナイト』の後、制定した「デント法」により、ゴッサムは刑務所に収監した犯罪者の仮出所を認めず、結果、犯罪は激減している。
このことにより、バットマンという犯罪者に対する抑止の力が必要なくなった。

"英雄"デント殺しと、彼の犯した全ての殺人の汚名を引き受けたバットマンを市民は"犯罪者"として認識しているため、彼らがバットマンを求めることはなくなった。だが結果だけをいうならば、『ダークナイト』において、デントを見初めた時にブルースが抱いた希望、“バットマン”による犯罪の抑止ではなく“法”による統治だったのだろう。

そしてもうひとつが最愛の女性、レイチェルを失ったことだ。
前述の通り、ゴッサムはバットマンを必要としなかったが、本作において、事態がゴッサム市警の手に負えなくなりつつあるときに、ブレイクの働きかけによりブルースは"沈黙"を破る決意をする。
ここで考えられるのがレイチェルの死後、ブルースは戦う意志を失っていたのではないかということだ。

バットマンが必要とされなくなっていたとして、いつ、またベインのような存在が出現するか、それは誰にも分からないわけだから、戦う意志があるのなら、常に戦いに備えて、すぐに対応できたはずだし、仮にバットマンとして戦うことをやめたのだとしても、ブルース・ウェインとして公の場に出続けることでなんらかの犯罪撲滅活動はできたはずだ。
このことから、レイチェルの死はバットマン=ブルース・ウェインの心に大きな影を落としていたことが分かる。そう、彼は失意のどん底にいたのだ。


仮初の再起と、敗北。
では逆に、バットマンはなぜ復活したのだろうか。
そのきっかけとなったのが、セリーヌとの出会いだ。
ブルースは本人の意志とは関わらず、未だにゴッサム・シティに大きな影響を与える権力を有しており、セリーヌにより盗まれたブルースの指紋は悪用されかねない。それを防ぐため、ブルースは行動を開始する。この時ではまだ、バットマンの復活には至っていないが、一因となったのは明らかだ。またブルースがセリーヌに興味を惹かれたことも大きいのではないか。

次にベインという強敵の出現だ。バットマン復活の直接的な要因はベインによりゴッサムの平和が脅かされていたことにある。ブレイクによってもたらされた情報により、ベインの存在を、そして一部の市民からバットマンの復活を望む声があがっていることを知り、彼はバットマンの復活を決意する。
失意の中にあったブルースの中には「ゴッサムのために戦いたい」という思いが燻っていたのだろう。また同時に、アルフレッドの悲痛なる「戻りたがっているようだ」という言葉により伺いしれるのは、彼の中にある種の、死に場所を求めるかのような自暴自棄の心がどこかにあったのではなかろうか。

この“沈黙”と“復活”に至る心境は矛盾しているように感じられる。本来、人間には相反する感情を内包しているものだが、この度のブルースの心情は極めて複雑なものであったと推察できる。

ヒーローもののセオリーとして、彼らの戦いには動機があり、内面の克服があって、かつ倫理的な正しさゆえに勝利を掴みとるものだ。
だが、このバットマンの復活には動機があっても、内情が伴っていない、言わば仮初の復活なのだ。
その結果が、ベイン戦においての敗北であり、彼は私有財産も含めた、文字通り全てを失い、奈落に落とされる。


バットマン=ブルース・ウェインにとっての再起。

重傷を負ったブルースが奈落の底で目にしたのは、ベインによって恐怖と絶望に突き落とされたゴッサム市民の姿だった。
怒りを原動力に傷を癒し、体を鍛えるブルースは奈落からの脱出を試みるが、地上にたどり着くことができない。このプロセスは彼が自分にとって足りないものを知ること、引いては真の意味で彼が"再起"することへと繋がってゆく。

絶望の象徴”奈落”がもたらした物。
地中深くに作られた牢獄からは空が見え、囚人たちに脱獄できるかもしれないという希望を与える。
しかし地上は果てしなく遠く、希望は簡単に打ち砕かれる。まるで神話やお伽噺に出てくる意匠だが、分かりやすく、極めて寓意的だ。

ベインのセリフに「希望があるからこそ、真の絶望がある」というものがある。
その言葉の通り、頭上に外の世界という希望が見えるからこそ、奈落から決して出られないという絶望が深く心に刻まれるのだ。

「人はなぜ落ちるのか」という『ビギンズ』で父トーマス・ウェインが言った台詞が一瞬カットバックされる。そしてその言葉には続きがある。ここまで物語を追ってきた者にとっては熱く胸を打つ。『ビギンズ』の項でも書いたが、ブルースにとって、父のそれは"希望"のイメージなのだ。


アメリカン・コミックにおいて王道のエンディングはヒーローの“死”とその意志の“継承”だ。
本作でもバットマンの"死"と"継承"が描かれている。
『ビギンズ』においてブルースは影の同盟で修練に励む中で“恐怖”に打ち勝つ術を学んできた。
それゆえに“死”すら恐れない強靭な精神力でバットマンとして戦ってきた。だが、本作において、ブルースは再び"恐怖"と対峙する。

奈落で、囚人から言われた「死の恐怖を受け入れろ」という言葉に導かれ、脱出に成功し、“魂の強さ”を手に入れる。この“魂の強さ”とは“死の恐怖”を感じ“生への渇望”を得て、より強い精神を手に入れることにある。

これまでバットマンは前述のとおり、“死”を恐れない姿勢で戦ってきた。
これは幼少の頃、目の前で両親を殺されるきっかけを作ってしまったことに罪の意識を感じ、自らの命を軽んじていたからではないかと感じる。また前述したとおり、レイチェルの死もそのことに拍車をかけている要因であるだろう。

また、ゴッサムのために戦ってきたバットマンだが、その理由の中に過去への贖罪の思いが強くあったのではなかろうか。この物語がトリロジーであり、彼がバットマンへと至る過程を、そしてその"強さ"と"弱さ"をきっちりと描いてきた布石がここで光る。

このことから、“魂の強さ”を身に付けたバットマンは“過去の贖罪”ではなく“未来への希望”を胸に戦うのだ。

ではなぜ、バットマンは“死”を受け入れたのだろうか。
実際にブルースは生存していたわけだから、バットマンとして戦い続けることができたはずだ。
その理由は、バットマンの意思を“継承”する人物が現れたからではないだろうか。
本作の最後の場面でブレイクがブルースからウェイン邸の地下設備、バット・ケイブを譲り受ける。

彼の本名が「ロビン」であることが語られる場面でピンときた方も多くいただろう。原作コミックスにおいてバットマンの相棒を務めるのが、この「ロビン」なのだ。彼がバットマンの継承者になるためのプロセスを、本作は些か駆け足な全体の展開の中で、ゴードン本部長との関係性、バットマンとの関係性、そして悪との戦いの中で短くも端的に、かつきっちり描ききっている。これは本当に見事だと思う。

こうしてブルースはゴッサムを守る役割、意志をブレイクに託した訳だが、バットマンの意思を“継承”したのはブレイクだけではない。
バットマンが持ち出した核爆弾が爆発する場面でその一部始終をを見ていた子供たちが映し出されるが、その様子が印象的だった。

バットマンは8年もの間、自ら汚名を被ることで人知れず街を守り通してきた。
最後には命を顧みず、核爆弾を街から遠ざけたバッドマンの勇気ある行動は、子供達の瞳にもバットマンが成しえた“正義”として映っていたことだろう。

他の市民たちにもバットマンの“正義”は伝わっている。その証拠にバットマンの銅像を建て、その功績を称える場面がある。
ブルースはバットマンが残した“正義”を宿した市民ならどんな困難にでも打ち勝てると考え、ゴッサムには自分が必要ないと感じたのではなかろうか。
たとえ、ゴッサム市民だけで乗り越えられない困難が生じたとしても、新たな“バットマン”が現れるのではないかとも思っているはずだ。

なぜなら、ブルース=バットマンは「“バットマン”はこの街の正義の象徴でしかない」と「ヒーローは他にもいる」と語っていたのだから。


このようにバットマンというひとりの人間としてのヒーローの心情と、正義、そしてその戦いを丁寧に描いた長編トリロジーとして、重厚な密度で語り尽くしている。この完成度は素晴らしく、その点だけでいえば、この『ダークナイト』トリロジーは他では類を見ない成功を収めている作品群といえるだろう。

だが本作『ライジング』には瑕疵も多い。
前作『ダークナイト』の世界的な成功と、圧倒的な芝居とキャラクター性で観客の度肝を抜いたジョーカー=ヒース・レジャーという存在を失ったことからの、その反動として、また、三部作を締め括る最終章として相応しい舞台を用意する意味においても、本作が採りうる策は物量とスケール感の倍増というものに頼らざるを得なかった。些か駆け足的な展開とツッコミ所の多さはその所以だ。


偽りの革命。
ラーズ・アル・グールの意志を受け継いだベイン、そしてミランダは格差社会の不条理と、ゴッサムの平和という傘の元で覆い隠された不正について、それを暴き、市民たちによる革命だと焚き付ける。これは2022年に制作された『ザ・バットマン』にも共通するテーマだ。
だが、本作のその"革命"は市民たちを分断し、街を混沌に陥れるための、ただの方便であり、真の目的はラーズ・アル・グールと同じく、ゴッサムの壊滅にある。
9.11以降における、イスラム原理主義の過激派による、自爆テロを思わせるそれは、彼らにとってのジハードであり、アメリカを混乱に陥れた構図を想起させる。
2022年現代、アメリカにとっての脅威はこれら海外のジハーディストたちによるものではなく、国内に存在している。
"過激派"に関して言えば、アメリカの法執行機関や情報機関の焦点は白人至上主義者や極右集団にシフトしている。こうした懸念は、2017年にバージニア州シャーロッツビルで死傷者を出したネオナチの集会や2021年1月6日にワシントンD.C.で起きた議事堂侵入事件といった出来事によって増幅された。
何れもアメリカ国内における社会問題に端を発しており、この『ライジング』で2012年に描かれた、ゴッサムで生まれたヴィランや犯罪者たちの姿は、こうしたアメリカの現状を予見したものと見ることもできる。

だが、いくらゴッサムを孤立した無法地帯とする為であっても、核を持ち出したのはやりすぎだ。
ウェイン工業が極秘裏に街のど真ん中で核融合炉の建設計画を建てていたのも、その必然性も、説得力も感じられない、常軌を逸している設定に思えてならなかった。


私刑とはなんなのか。
クリストファー・ノーラン監督と脚本家のジョナサン・ノーランの兄弟は、本作を『二都物語』から着想しており、特に中盤に出てくるリンチ裁判はその中心的な題材である。
『二都物語』はフランス革命を描いた小説だが、革命に立ち上がった民衆は残虐性に火がついて、わずか1年あまりのうちに16,594人をギロチン送りにしている。裁判なしで殺された者を含めれば、犠牲者は4万人に上るという。
当時のフランスは歳入の9倍もの財政赤字を抱えながら、増税反対の声に押されて財政改革が挫折する有様だったのだから、民衆が蜂起するのも当然ではある。

しかし、自由と平等を掲げた人権宣言の採択ではじまったはずのフランス革命が、恐怖政治に転落するのは早かった。反対意見を述べる者は次々に粛清され、相互監視による統制がなされていた。これが健全な国家運営であるはずがない。

けれども、それではバットマンがやっている事はなんなのだろうか。クリストファー・ノーラン監督は、シリーズを通じて何度も問いかけてきた。
正義とは何か。正義の執行とは何なのかを。

それは、すべてのスーパーヒーローと、スーパーヒーローを支持する市民が抱えている問題だ。

治安のためなら暴力も辞さない機関として、国は、私たちは警察を設置している。警察が十全に機能していれば、私刑を行うマスクの男は不要かもしれない。
だが本作、『ライジング』において、警察の機能は疑問視されている。
警察が散々な扱いを受ける一方、市民たちは自警団を肥大化させ、気に入らない人間を次々にリンチ裁判にかけていく。悪事に頬かむりせず立ち上がるとは、こういうことなのか。

公式サイトにはノーランがバットマンをどう見ているのかがコメントで紹介されている。

「僕がバットマンというキャラクターにいつも惹かれてきたのは、これまでに何度も指摘してきたように、彼が巨額の富以外には何の超人的パワーももたないスーパーヒーローだという点なんだ」「彼が何か途方もないことをやってのけるとき、彼を突き動かしているのは極めて強い動機と純粋な献身だ。だからこそ、彼はとても信頼のおける人間なんだよ」

本作がフランス革命を背景にした『二都物語』からインスピレーションを得ているのも、バットマンが大富豪であり、貴族と平民という『二都物語』の対立軸がそのまま適用できるからだろう。

ノーランは、バットマンが信頼のおける人間だというが、富裕層であるだけで民衆の恨みを買うのなら、バットマンの居場所はどこにあるのか。
そしてバットマンと対比するように、盗賊セリーナが貧しさゆえに悪事に手を染めたことや、孤児院を出た子供たちはベインの傭兵となるしか行き場がないことが語られる。
はたして、巨額の富を持つブルース・ウェインがするべきだったのは、マスクとケープに身を包んで悪人退治に徘徊することだったのだろうか。

やがて市民たちの自警団と警察が衝突するとき、遂にバットマンは警察と共闘する。
そのとき警察官たちが叫ぶ「警察は一つだ」というセリフは、勝手に振る舞う自警団を否定するとともに、私刑執行人たるバットマンをも否定しているように聞こえるのだ。(ちなみに私はここに本作の脚本の詰めの甘さが出ているように感じられる。)

思えば、スパイダーマンは「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という言葉を噛みしめて、責任を全うしようとした。
一方バットマンは、ノーランがいうように何の超人的パワーも持たないが、それでも立ち上がろうとする。
だから本作、『ライジング』が強調するのは、「バットマンには誰でもなれる」ということだ。

『ライジング』では、人々が立ち上がるのは既に当然のことなのだ。
その上でいかに独善に陥らず、人々と協調し、理性的に立ち上がるかが問われている。


この独善については前作、『ダークナイト』で既に言及されていることだ。本作はその問いかけに対する答えを用意出来なかったのが致命的であると私は思う。本作がこれだけのスケール感、資金、素晴らしいキャストや、撮影技術に恵まれていようとも、前作、『ダークナイト』に遠く及ばなかったのは単にジョーカーのような飛び抜けて魅力的なキャラクターが不在であったこと、"だけ"ではないだろう。広げた風呂敷を畳むのは上手であったが、取りこぼしが多い。しかも、その取りこぼしたものの中には、本作が投げかけた強烈に普遍的なテーゼが含まれている。


とはいえ、先に述べたように、ヒーロー映画たる要素を十分に満たしている本作は、一度は観るべき作品であるのに変わりはない。トリロジーを締め括る集大成的なスケール感と、スピーディーでかつ明確なストーリーテリングは見事であるし、ゴッサムの街並みの美しさと、それらが尽く破壊されてゆくディストピア感を堪能もできる。神話やお伽噺に出てくる意匠を取り込みながらも、全体的なリアリティ・ラインは高度に保たれたままなのも非常に好感触。ゴードンやアルフレッドをはじめ、これまで描かれてきたキャラクターたちの活躍や、報われる姿も感涙ものだ。
朱音

朱音