晴れない空の降らない雨

エドワード・ヤンの恋愛時代の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

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 エドワード・ヤン流トレンディドラマというかスクリューボール・コメディというか。観客から笑い声が上がるくらいちゃんと面白い。冒頭で舞台演出家に言わせているようにヤンはここで「大衆路線」を採用しつつ、主題とスタイルにおいて作家性を成立させている。その両立には何の苦労も感じさせない。
 玉突き事故的なストーリー展開の仕方は『恐怖分子』などと同様だが、脚本の緻密さはヤンの中でも随一の作品かもしれない。錯綜する人間模様を処理していく手際の良さは、こちらも集中していないと置いてけぼりを食らう。そしてそれ以上に、フレームの見事な使い方にその天才ぶりを再認識できた。
 
 この映画は登場人物のシルエット化が特徴的だ。影で塗りつぶされ、表情の見えない人たち。それは彼らの孤独感、表に出ない内面、あるいは親密さといったムードを醸し出す。念押ししておくと、「人物のシルエットは孤独感等々を表現する」と言いたいわけではない。そう言ってしまうと、人物のシルエットは文字と同様に、特定の意味(孤独感等々)を読み取れる単なる記号になってしまう。確かにシルエットはモーリーらの孤独感等々を表現しているかもしれないが、それだけでなく画面に「ニュアンス」を付与し、映画に「ムード」をもたらす。その技が巧みであるから、エドワード・ヤンは素晴らしい(というか素晴らしい映画監督とはそういうものである)。本作の照明の効果的使用はシルエット化に限ったものでなく、さまざまに登場人物を彩ってみせる。
 
 もうひとつ、自動車やエレベーターの中という空間が本作では目立つ。モーリーはラリーを追及して弄んだ挙げ句、車からつまみ出す。アキンも最後はラリーをエレベーターに押し込んでしまう。本作の悪役といえるラリーが友人たちから締め出されるという出来事が、反復されている。
 自動車やエレベーターの狭苦しい空間では、コミュニケーションもギスギスしがちのようだ。自動車やエレベーターといった空間で、チチとミンの喧嘩が反復される。しかし、アキンとラリーにおけるドアの閉ざされとは対照的に、チチとミンにおいては最後にドアは開かれ、それが絆の回復の瞬間として(ベタだが)感動的に描かれている。
 
 時にこれらの装置を使いながらヤンが描くのは、やはり「独立時代」(本作の原題)におけるコミュニケーションの機能不全である。エンディングでは救いがあるとはいえ、映画は飛び交う言葉の多さと、その実りの少なさが印象が強く、コミカルなシーンも多数ありながら何ともいえない寂寥感を観客の胸に残す(それには、人物を儚げに照らす光の使い方も大いに寄与しているだろう)。