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復讐するは我にありのyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

復讐するは我にあり(1979年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

「子は親の鏡である。」という言葉が浮かぶ。そして自我の目覚めた子は、自分が唯一無二の存在であると親に主張し、親を乗り越えたいと反抗を繰り返す。
自分が親になり、自分の親に共感するまで反抗と葛藤は続く。エディプス・コンプレックスと言われるが、戦後の混乱を終えた時代、かなり極端な反抗が描かれた映画だと感じた。

Amazonプライム・ビデオで発見。
よく昔は民放テレビ局で放送していたが…現在では無理だと思い、数十年ぶりに鑑賞。

現在は現実に複雑多岐な理由で、事件が毎日ニュースで紹介されている。
この映画も実話がベースの不条理な連続殺人が描かれているが、対岸の火事と割り切って見ることが出来ない時代になってきたからだ。

この作品を観ていると、今村昌平監督は榎津巌という人間の内面にかなりのシンパシーを抱いていたのではないだろうかと思えてくる。
監督は恐らく、私が冒頭に書いた、親に対する葛藤と反抗を終え、親に共感や同情を抱く時期に差し掛かっていたのではないかと思う。

そう思うのは、榎津巌という男が、癒されることのない心の飢餓感を表現しているからだ。

子というのは、特に男の場合は「父に似た」などと認めたくない。
恐らく死ぬまでずっと。
「ロクデナシのアイツ(父)とは違う。」
「母親を幸せにできない男と一緒にされたくない。」
理由は様々だ。父は息子にとって永遠のライバルであり、敵なのだ。

主人公の榎津巌は監督の分身だ。
親のようになっていく、老いていく、丸くなっていく、自分自身への抵抗が榎津の演出に現れているとしか思えない。

監督は自分自身の内にある「親と子の関係とは何か?」という命題を榎津親子を関係を借りて掘り下げているのだと思う。
それほど情念というモノがこもった物語だ。

巌は長崎の五島列島の出身で、一家は熱心なカトリック信者だった。

戦時中、軍に船を供出するようにカトリック信者だけに命令され、網元をしていた父親が軍人の前で、神ではなく天皇陛下への忠誠を誓わされるという場面を目撃する。

それは少年の巌にとっては神への裏切りであり、欺瞞以外の何ものでもなかっただろう。
にも関わらず父はその後も敬虔な信者として神への信仰を口にし、目の前に存在していた。

神に嘘をつきながらも、神を信じ続ける父親。
父を憎み、神の教えに背き悪行を重ねる巌。
偶然にも、巌も父も嘘をつき続ける。

アメリカ軍の軍服を着て米兵の真似をし、
善良な工員になったり、
大学教授や弁護士になったり、
自分以外の何者かに生まれ変わり、自らの出自から逃れたかったのではないだろうか。

詐欺師、そして連続殺人犯として全国に指名手配される巌。

それを知った上で、巌を匿う旅館の女将の母親は、殺人罪で長く獄中にいた為か、巌の内面を言い当てる。
「榎津、なぜ人を殺す? あんたは本当に殺したい人間を殺していないね。私は本当に殺したい人間を殺したから悔いはないよ。」

巌が本当に殺したかった人間。
父であり、それはまた父に繋がる己自身だったのだろう。

熱心に神に祈りを捧げ、神への信仰を口にし、網元として信者たちの信望を集めていた父は、巌にとっては神に近い存在だったのではないだろうか。
まさにオイディプス王だ。

その父に裏切られた。
自分の目の前で天皇陛下への忠誠を口にし、神を冒涜した。

そして父が自分の妻と愛し合っている。
寝取らずとも心の中では幾度も自分を裏切り続けている。

そして巌は、彼の口の上手さに騙され、彼を信用した人間を裏切って殺し続ける。
父の信じた神を裏切る。

なぜ巌は自殺しなかったのか?
神と父を汚す行為を続けることが、巌のアイデンティティであり、存在理由だった。
神を恐れぬ行為は、父と神を超えようとしていたのだ。

「お前のようなクズには父親は殺せん。そのことは端から知っている。」
鉈を差し出して俺を殺せと迫る父にたじろぐ巌に、父親ははき捨てるように言う。

「不公平たい。あんたが生き延びて、俺は死刑になる。不公平たい。」
冒頭で、逮捕された榎津が警察に連行される車の中で刑事に向かって「不公平」と口にする。

どす黒いものを吐き出した己と、どす黒さを必死に隠し持っている父親と、どれほどの差があるというのか?

自分の犯した罪と、父がその内面で犯し続けている罪と、その罪の重さにどれほどの違いがあるというのか。

死刑の確定した巌と面会した父は「わいもお前と同じどす黒いものを胸のうちに抱えている」と胸の奥底から搾り出すように本音を語る。
「あんたを殺すんだった」
父に向かって憎しみをこめて言う。

父と息子は、互いの内にある同じどす黒さを、息子は吐き出し続け、父親は神の名の元で必死に覆い隠す。

親と子という逃れようのない葛藤と確執。
それが本作のテーマであったのではないだろうか?

彼らを取り巻く女たちは、自分の欲望に正直であり、生きる逞しさがある。

死刑となった巌の遺骨を、父と巌の妻である加津子は、空に向かって投げつける。
巌の呪縛、己の禁欲の鎖から自らを解き放つかのように空に投げつける。

真っ青な空で静止する骨のカット。
巌の呪縛を叩き壊さんばかりに骨を投げる父鎮雄の形相が凄まじい。

その形相に「やはり親子だ」と感じてしまう。
「子は親の鏡である。」という言葉がこの時、浮かんだ。


追記
今年の夏、長崎県及び五島列島の潜伏キリシタンの歴史遺産が、世界遺産に認定された。
長崎県には約130もの教会があり、そのうち50あまりが五島列島にあるそうだ。
五島列島には江戸時代の禁教令下にキリシタンが移り住み、信仰を守ってきた歴史がある。

この映画の話も実話であり、この世界遺産の歴史の一部である。

世界遺産のニュースを聞いた時、映画フアンの私の頭の中に何か引っかかたのだが、この映画だと、再見してやっと気づいた。
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