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フロム・イーブル 〜バチカンを震撼させた悪魔の神父〜のRのレビュー・感想・評価

4.5
カトリック教会のオグレディ神父と、彼から性的虐待を受けた被害者の家族が、自らの身の上話を語るところから映画は始まる。オグレディは、敬虔な神父であるふりをしながら、頭の中では、いかにして幼児たちを性的な関係にもちこむかを常に考え、ワナを張り巡らしていた。男児、女児かかわりなく手を出しまくってて、はじめは、性器に触れたり、自分のにさわらしたり、くらいだったのが、どんどんエスカレートし、出会っていきなり男児のケツにナニをぶち込んだり、9ヶ月の幼児の膣に挿入を試みていたりと、驚異の異常さ。これを本人が自ら語っていく。同時に、オグレディを心から信じていた被害者と彼らの親たちのその後の苦悩の人生が、本人たちの口を通して語られるため、激ヘビー。信仰を最低な形で裏切られるとは、これほど修復し難い傷を残すものか。彼らの感情が徐々に高まって、激昂していく様子に吸い込まれるように見入ってしまった。それにしてもとんでもない神父がいたもんやなーと思って見てると、彼の犯行を世間の目から誤魔化そうとした役職の高い聖職者が何人もいて、彼らは教会組織のなかで自分の地位が上がっていくことを、人びとの幸福よりも優先しているのだ。とんでもない奴らよ、と思ってみてると、あれよあれよ、この辺からネタバレになるけど、事実として有名やからまぁいっか。どんどん被害者数がうなぎのぼりで、最終的には、バチカンの教皇すら、自分の地位を保持するため、無数のレイプ事件を隠蔽しようとしていたのだ。法政界もグルになって! さらにさらに! 教会の腐敗しきったおそるべきシステムは、4世紀にはすでに始まっていた!らしく、なぜ神父は結婚してはならぬのか、なぜ神父には幼児に対する異常性欲を持つ者が多いのか、などを明らかにしていく。この辺はマジで面白い。ほんでよ。自分たちの地位と名誉を守るため! 法衣の下に隠した醜悪な欲望を見せぬため! かたく閉ざしたバチカンの門! まったく何ということだ。これ見て感じたことが2点。ひとつは、宗教は人に対して権威を持っては絶対にならないということ、権力と結託しては絶対にならないということ。宗教はあくまで民衆に根ざし、民衆を中心としたものでなければならず、人間の幸福のため、というのが何より優先される絶対与件であらねばならない。また、宗教組織体のヒエラルキーにおいては、役職は名誉職ではなく、責任職であるということを絶対とすること。よって、上に行けば行くほど、民衆の幸福に対する責任の幅が広がり、重さが増し、心を砕きに砕いて、民衆に仕えなければならない。これは本来ならば国家組織体でも同じはずやんね。2つ目は、在家の信者、てか人間全般について。人間は、宗教に限らず、何か信じるものがなれば生きていけない。という前提のもとで、自分の信じているものが本当に正しいかどうかを、あらゆる面から査定することを怠ってはならないということ。宗教を持たない人であっても、必ずや、宗教の代わりに何らかのものを信じているはずだ。漠然としているのであれば、一刻もはやくそれを明確化し、ほんとうに自分は間違ったものを信じていないか、今のままそれを信じ続けて裏切られることがないか、それを信じることが100%幸福に繋がっているか、徹底的に査定すべきだと思う。自分が何を信じるかによって、自分がどういう人生を生きることになるかのほとんどが決定される。それをはっきり意識することだ。そして、疑うこと。疑うことは悪いことでは全然ない。むしろ不可欠。疑いという純粋な理性による批判のふるいを徹底的にかけ、かけてかけてかけまくって、それでもそこに残ったものを信じる、というのでなければ、それは盲信であり、盲信ほど恐ろしいものはこの世にはないのである。それは、本作を含む数々の映画で繰り返し提示され続けている。カトリック教会は、どう見てもいろんな意味で危険な組織であり、まさに本作でも言われていたように、一種のカルトとなってしまっている。マルクスが宗教は阿片だ、と喝破したよりももっとひどいひどいことなってしまってる。とは言え、こっからは映画から離れるけど、すべての宗教がことごとく阿片やそれに劣るものだとはまったく思わない。この宇宙で起こるすべての事象を科学で説明・解決できるということは絶対にあり得ないし、科学を突き詰めたときに、エセ科学者でない限り、必ず宗教に行きあたる、というのはよく言われている。アインシュタインもそうだった。そりゃそうだ。だってまず、自分という個体が何のために生まれてきて、どこへ行くのか、死の向こう側に何があるのか、これほど人間にとって避けられない問題はないし、科学で解決できる種の問題でもない。そして、自分ひとりだけの経験と知識だけで簡単に答えが出せる問題でもない。前も書いたが、とある自殺を繰り返す患者に、精神科医のおっさんが、何故あなたはそんなに死にたがるのですか?と問うたとき、患者は、じゃあ何故あなたは生きているのですか?と問い返されて答えることができなかった、という話を読んだことがある。この問いこそ、まさに、哲学のはじまりであり到達点でもあると思う。そこに明確で具体的な道を与えるのが、宗教の役割であるべきだ。宗教は漠然とした神秘的おすがり信仰であってはならない。現実にしっかりと根を張りながらも、全宇宙を見おろし、永遠のなかの「いま」という瞬間を、未来に向かって、生き生きと生きるための、常にフレッシュな教育運動であるべきだと思う。ゆえに、我々には、哲学・教義の正邪を見抜くための知識が、智慧が、必要であり、無機質な知識の詰め込みでない、磨きぬかれた有機的理性と、単なる思いつきでない、鍛えぬかれた直感とが必要であり、そのための幼年期からの勉強だと思うのです。また長くなってモータわ。もうやめます。この映画、面白いっす。オススメです。
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