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マイネーム・イズ・ハーンのkomoのレビュー・感想・評価

マイネーム・イズ・ハーン(2010年製作の映画)
5.0
敬虔なイスラム教徒のリズワン・ハーン(シャー・ルク・カーン)は幼い頃から人付き合いが苦手だったが、それを咎めない優しい母の元で、心の優しい青年に育った。
母の亡き後、弟が暮らすアメリカへと移住したリズワンは自分が『アスペルガー症候群』であることを知るが、その後も前向きに営業職に打ち込んでゆく。
ある時ヒンドゥー教徒のマンディラ(カージョル)という美しい女性と運命的な出逢いを果たし、宗教の違いを乗り越えて結婚。
マンディラの連れ子・サミールも含めた3人で暮らし始めるが、その幸せは長くは続かなかった。2001年9月11日、イスラム過激派組織によるあの同時多発テロが起こったことで、すべてが変わってしまう。
その日を境に、アメリカで暮らすイスラム教徒の人々の生活は一変。善良な教徒までもが謂れのない差別や攻撃を受けるようになってしまったのだ。生活を脅かされたイスラム教徒たちは信仰がわからないように名前を伏せ、女性はヒジャーブを外さざるを得なくなった。
マンディラの息子のサミールもまた、イスラム系の名前に変わったことで学校でいじめを受け、事態は最悪の方向へと発展してしまう。
最愛の息子を傷つけられたマンディラは、絶望の淵でリズワンに別れを告げた。
マンディラの元を去ったリズワンは、彼女と交わしたある約束を果たすため、アメリカ横断の旅に出る。



リズワンの姓である『ハーン』はイスラム教圏の名前で、喉頭蓋を使って発声する必要のある少し複雑な響きです。
人から正しく名前を呼んでもらいたいリズワンは、「僕はハーン」と何度も何度も口にします。
しかしそんな彼の自己紹介は、9.11以後、こう変化してしまいます。

「僕はハーン。テロリストじゃない」

この言葉を背負ってアメリカ中の人々と会うことが、リズワンの旅の目的となりました。
自分の名を名乗るということは本来、人間にとってごく自然な尊厳を伴う喜びであるはず。しかし争いの火の粉はハーンやその他大勢のイスラム教徒の人々から、そんな喜びを奪ってしまったのでした。
それだけでなく、生まれる前から信じていた神様を奪われるのはどんな感覚だろう。

障がいと宗教。
その2つの面において差別の対象となりながらも、必死に立ち向かってゆくリズワン。
リズワンの母が幼い頃に彼に教えた、「世の中には良いことをする良い人と悪いことをする悪い人しかいない」という言葉は、本当に真理だと思いました。

"この人の見た目はこうだから、この人の宗教はこうだから、この人は悪いことをする人に違いない"。

そんな勝手な憶測で人を疑い、その人の考え方や人権を否定してはいけない。
それは当たり前のことなのに、そんな当たり前のことを人々は日々の生活の中で忘れてしまいがちです。
そうして他者を傷つけてしまうのは、自己防衛心からくるものなのかもしれません。
真に持つべき"勇気"とは、他者と戦う勇気ではなく他者を信じる勇気なのだろうと、この映画から学びました。
そんな意思をさらに後押ししてくれるのは、挿入歌の『勝利を我らに』。この曲はリズワンが栄光へと駆け上がってゆくラストシーンでも使われていて実に圧巻です。

リズワンの人格を優しく見つめてくれた母やマンディラは、障がいの有無は関係なしに、リズワンがリズワンだからこそ愛してくれた人々。
世の中がそういった人ばかりならば争いも起こらないのかもしれませんが、残念ながらそういった良い人はごく一握りで、なおかつ争いの余波に巻き込まれる側の人物であったりします。
しかしだからこそ、心の優しい人間同士が触れ合う光景は尊く、次第にその輪がより多くの人々へと広がってゆく様は、観ている側の心の円も押し広げてもらえるような感覚がありました。
中でもリズワンという人物の決して揺れることのない誠実さには、数ある映画作品の中でも特に心打たれました。

こうして書くと重苦しい印象の物語ではありますが、全体的に洗練された音楽と映像美に溢れており、"生きることの歓び"も全面に打ち出してくれているため、決して陰鬱な映画ではありません。
横断歩道で怯えるリズワンにマンディラが優しく声をかけたところから全てが始まる、出逢いのシーンがとても良いです。
まるで洗礼を受けたかのように、まるで時の進む早さが変わったかのように、マンディラの声をじっくりと噛み分けるリズワン。
初めは声のみでの登場だったマンディラが初めて画面に現れた時には、胸に爽やかな風が吹き抜けました。
でもこの時、リズワンの胸には私が感じたのより何倍も鮮烈な風が吹き抜けたんだろうな…。そんなリズワンがとても羨ましいです。
結婚式のシーンも端から端まで見惚れてしまう鮮やかさで、人と人が結ばれることの尊さが伝わってきました。
160分という長尺映画でありながら、リズワンのパーソナリティであったり、彼に影響されてゆく人々の心の動きを映し出す上で、無駄な映像がひとつもないのが愛おしいです。

日本未公開の作品であるため知名度が低く、セルやレンタルでもあまり見かけないのが本当に惜しまれます。
より多くの方にリズワンの心優しい自己紹介が届いて欲しいと願います。
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