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カフカの「城」のkuuのレビュー・感想・評価

カフカの「城」(1997年製作の映画)
3.0
ピンポーン
なぜかピンポン音には怒りを覚えつつ
小生:『はィ~ぃ💢』
野郎の声:『クロネコヤマトですーぅ』
マスクはめて扉をガっチャン。
最近よく来るイケメン配達員マスク着用しとるし、よけい男前やなぁイカシとるながな、そそる😁
小生は野郎でノーマルですが。
なんやろなぁ?ワクワク
Amazon、メルカリ双方でなんも買ってないしなぁ?
今シコシコ貯めたメルカリポイントで買った斧はもう届いたし←(斧はゾンビ対策と日常の道具として)何も無かったはずやのに、、、など考えつつ~の、商品受け取ってから~の⁉️
伝票みたら‼️友達がテレビ用に作られたと云う『カフカの「城」』のDVDを贈ってくれた。
アラレちゃんならキーンとひとっ飛びお月様やわ。
嬉し恥ずかしスイッチオンで鑑賞。
んでの乾燥じゃない、完走('_'?)間違いじゃないけど、感想す。

あるコラムに園子温が、カフカの『城』と1990年代に起こった事件をモチーフにして、『恋の罪』を描いたって書いてた!
渾身の作品やからこそ、妻に迫真の演技をさせたんやろうけど、自分には無理!
嫁さんは居らんけど、居ったとして、嫁さんか、自分の母親にこないな演技をさせなきゃならない究極の選択(どちらも今は存在してないし、空想、妄想やけど)を迫られたら!?
自分は死を選ぶかな。
扠、小生はカフカが好きだ。
正確には、カフカを読んでる自分の姿見が好きかな😅
この作家は『変身』てのはよく知られてるけど、ザムザ~っ
『城』の方はあんまり知られてないかなぁ。
『異邦人』の作者カミュも敬愛してたとか。
カミュの作品は彼の影響が見え隠れはしてるかな。
不条理!あぁ甘美な響き藤山寛美。喜劇王←関係性ありませんので。
自分ちゅう存在が、ある時に突然、誤って世界に放り出されたら!!
一つの意識に過ぎひんとしたら!!
しかも、その放り出された世界はマジに現実みたいで、
自分の存在は宙吊りの幻覚のようなものでしかないんやったら?
先日見た『curve』もシチュエーション的には同じやね。
人は、それに気づいた瞬間から、どないして生きて行ったらいいんやろ?
いや、どうする事が生きることなんやろ?
『カフカの「城」』に戻りますが、ハイ🙇
カフカの描く小説の主人公の測量技師Kは小説の中でそないな状況に果敢に行動しよる。
常に行動し続けよるし、自己の存在に普遍的な者の承認を得ようとしよる!
キルケなんちゃらって偉そうなオッサンの言葉を使うなら。
世界ちゅう確かな現実に『誤って印刷されてしまった一つの活字』のままとして。
その活字が、世界全体にとっては何の意味も持たへん無価値な非存在であることを受け入れはしいひんし、
行動せずに観察するのみ、世界の中で生きるんじゃなくて、世界の外から現実を測量するだけの、ミスプリの測量技師としてとどまる事もせんと、
勇敢に、かつ大胆に(恋愛もそうありたいけど😊)、
決して諦めずに行動する。
Kの持つ不思議な明るさってのは何やろ?👯
測量技師Kはいつかは、きっと、城への迷路を抜ける事できっと信じてからやろうか?
Kの行動を支えんのは、そんな希望なんかなぁ。
それとも、Kは最初から絶望しきっているのかもしれへん。
自分の存在が確かな現実じゃないちゅう認識がある限り、
どんな挫折も意味を持たへん、
傷つくことも、恐れることも、惨めになることも、決してなあらへん。
城を目指して這い回り、血を流しながら苦闘するKの不思議に透明な明るさは、Kの根本にある現実存在としての自己への絶望から生じるものちゃうかなぁ~と。
Kの存在の様式を、行動することのみに規定してしまうその本質的な絶望を、Kはガチに力を尽くして取り去ろうとしとる。
その絶望から自由になるために、Kは必死で闘うんやけど、他者の手助けを拒み、自己に絶望しながら、実は自己以外の者を決して信じないという頑固さのために、Kの全力を尽くした苦闘は、ますます彼を迷路の奥へと引き込んでしまうだけや。
女性を愛するのも、他者と関わり合うことで現実存在に近づこうとする闘いの一つ。
Kは、総ての女性と誠実に関わろうとしよる。
せやけど、Kが女を愛することで現実と強いつながりを持とうとしているのに対し、女の方は、逆に、Kを愛することで現実から逃げ出そうと夢見とる。
存在すること自体が即生きることになるような、自己と対峙することのない無意識的な城の役人や、
又、無意識の領域に光を当てる恐怖から逃れるために城の絶対性を盲目的に信じている村人よりも、
Kのように覚醒し行動する人間が、女たちにとって魅力があるのは当然やろう。
せやけど、結局は女たちもKから離れよる。
自己の存在の根底を揺さぶられるほどのKの非日常的な魅力よりも、確かに存在し続けることの安定感が、生きるためには必要やし、女はいつでも、手段としてではなく、目的として愛されることを望むからや。ヤクザもんがモテる要因やな。
それでもKは行動する。
Kのような、常に運動し続ける精神としての人間は、
存在する者としてではなく、存在を対象として、その意味を問い、その姿を明確にする測量技師として生きるしかない。
せやのに、彼は、自分自身が確かな現実存在になることを望みよる。
ほんで、自己の存在に承認を得るため、城を捜し求めるんやなぁ。
ミスプリの活字としての例外的な異端者の生ではなく、在るべき所に在るべくして生まれてきた現実存在としての生を得るために、Kは、行動し続けよる。
せやけど、例外者が自らの例外性を普遍的なものとして他者に認めさせるということは、例外的な者こそ真であり、普遍的な者が実は世界の付け足しに過ぎないのだということを、証明することでもある!
せやから、城はKを寄せ付けへん。
城は、その周囲を、自己を精神として意識することの決してない、無能で無意識的な、それゆえ確かな現実として存在し、城の絶対性を疑うことのない役人たちで取り囲んでいる。
彼らは存在の意味など問とらへんし
、他の総てのことに関しても、膨大で細かな城の規則に従っているだけで、自ら考えるということは決してしいひん。そんな無能な役人たちで守らなくてはならないほど、城の実体は空虚で無意味や。
その空虚な無意味さに気づくことのできるような人間を、城は、城の神話を保つために、決して寄せ付けへん。
城を城として、無条件で受け入れる人々は、いわゆる世間という安全な砦の中で、村人として生活することができよるが、城に到達しようとする者は、常によそ者であり、城は、世界の中心としての、つまり、存在の極としての城が、実は空虚な無意味であることを、城自身に対して暴露されるのを避けるため、そのよそ者を断固として拒絶しよる。
せやから、Kは、決して城にたどり着くことは出来ひん。
城への迷路を這い回る、Kの血だらけの旅には、永遠に終りはないし、それに気づきながら闘い続けるKの精神も、肉体の死を乗り越えて、永遠の闘いを行き続ける、、、カフカの伝えたい真の心を小生は尊敬しざる得ない!
謳い文句に『忠実な映画化』その通りの映像やったと思う。
kuu

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