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教授とわたし、そして映画のotomisanのレビュー・感想・評価

教授とわたし、そして映画(2010年製作の映画)
4.1
 タイトル通りなら最後の一編を結びとして映画娘オッキの日々が構成されるのだろうが、何とも韜晦な、話は第1篇として同級生ジングの課題制作映画として始まる?
 第2篇でそれを査閲し出来栄えを称賛する指導教員ソン教授と監督ジングに加えてオッキ本人がやっと現われ、なにやら筋書きはできてるといわんばかりに、吞兵衛で「イカレた」と呼ばれるジングが鳴かず飛ばずなオッキに急接近し何となく出来上がってしまう。何だいこりゃと思ったら、第3篇は一転ソン教授の辞職と監督復帰の決心までの雪晴れの半日と来て、やっと最終篇でオッキの怪体さが全開される。
 これがなんとソン氏とジングの男くらべという態で笑うに笑えないのだが、まさにオッキ度80という感じの可笑しさであった。しかし、差し引いた20こそが、名こそ明かされぬ「若い男」ジングと「年を取った」ソン氏の内面を感じられない形骸性であって、ここに想像を働かさない辺りがオッキの鳴かず飛ばずなところなんだろう。そしてまた、第1編のナム先生曰く、真実は人為を通じて現れるうんぬんであり、役者にせりふと動作を再現させただけのオッキが内心気付いている至らなさでもあるのだろう。なればこそ、前3篇を誰かが補足してやらないといけないわけだ。
 ただそれでもオッキ自身が話中明かす通り、オッキ自身の後ろめたさの根源である、ソン氏とたどった山道の奥、形のいい松の木の下で毎年元日午後1時に必ず会おうという頼みをけろりと忘れて、一年と一日ののち、今度はジングと辿るわけで、その現場まで来て思い出しゾクリと来るのだ。「男二人が」どうだと云うより、オッキ自身の「男二人と」の折り合いの付け辛さに能く焦点が当たったような、けったいにもいい出来に映ってしまうのである。はたして、ソン氏に二人の会合を見られてしまい、この衝撃なかりせば映画化も思い至るまじ。
 これ一編を一つの劇としたら、ちっともいい出来と見えないオッキ映画だがジング映画に始まって、ジングとソン氏を解体しておく事で、いかにもぶきっちょなオッキ自身、独白となってしまった。
 もっとも、ぶきっちょと云えばジングも相当の馬鹿野郎で第1篇で指導教員ソン教授を肴にして、カネと学内閥ネタを自作映画のミソにするとは捨て身の口撃としては上等だが、好評を得るつもりなら相当の悪手差しだ。第2篇でオッキが研究室の外で聞いた変な音とはまさにジングの迷作に教授が吐いた悪態に他ならない。
 まことこのように、若者二人のとんちき振りに指導者として自信を無くすのも当然かもしれないが、転んでもただでは起きないのか、それとも転んだ振りしてネタを拾うのか、不倫相手の浮気現場を愛の証しの記念日当日にガン見するハメになってソン氏もいっそ自分で「オッキの映画」を撮ろうかと思ったものかもしれない。そう思えば、まさしくホン監督こそソン氏生き写しに思えて来て可笑しいではないか。
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